祈ってごらんよ

「♪だから空仰いで 神さまとひとこと

  祈ってごらんよ わかるから ♪」

これはこどもの讃美歌です(新聖歌481)。それは単純そうでいて、キリスト教の信仰の一番大切なことを教えてくれています。

 ある牧師さんが、信仰を求めて教会に来た人たちによく「お祈りしてごらんなさい」と勧めたそうです。それを聞いたある初心者の人は、お祈りしようと思ったのですが、神さまに祈るなどということとは縁のない世界で過ごしてきたので、それがなかなかできなかったそうです。

 しかしとうとうある時、死ぬ思いで「神さまっ!」と口に出して言ったそうです。すると、どうでしょう。今まで理屈でよく

 分らなかった神が、そばにいてくださるということが突然わかったというのです。

  神さまはこのようにして、祈りを通して、わたしたちにご自身をあらわしてくださるご人格なのですね。あなたも

 目を閉じて、神に呼びかけてみませんか。

                                                     

 

           命とは何?

 「君たち、命ってなんだかわかる?」聖路加国際病院の院長を御高齢になるまで現役で勤められた故日野原重明博士が、一年生の子どもたちを前にこんな質問をしたそうです。

 「命って、時間なんだよ」と話して聞かせたとのこと。含蓄のある言葉だと思いますが、あの日本赤軍による日航機乗っ取り事件の時、その飛行機に人質として乗り合わせていた博士ならでの言葉なのかなと思います。

 神からそれぞれに託された時間を何によって満たすのか。それが「命」だとすれば、お互いは「今、この時」をどう用いるのか、どう応えていくのか、問われるところですね。

 

 

     「足る」を知る

 新聞に、節約生活を始めた年配の女性の体験談が載っていました。一人になってから持ち金をはたいて小さな家を買ったそうです。年金は月5万円。最初は不安で眠れなかったとのこと。しかし食費を月1万円と決めたとき腹が座り、生活の目途が立ったとき不安がなくなり、そうした日々が楽しくなり、いつか身体もすっきりしてきたとのことでした。

 『「足る」を知る』という言葉を思い出しました。聖書にも「満ち足りる心を伴った敬虔は大きな利得の道です。・・・食べるものと着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです」(テモテへの手紙一6・6、8)とありますが、これぞ本当の「自由」ではないかと思わされます。

 

 

    女王の最期

 英国のエリザベス女王については、わが国でも有名な方でありましたが、この度のご逝去でいろいろなことがいまさらのように報道されています。知っているようで知らなかった女王ですが、その気品のある笑顔と、ある種毅然としたたたずまいには、私たちの多くが強い印象を与えられていたのではないでしょうか。

 あるキリスト教メディアが伝えていました。女王は生前、キリストの再臨(復活したキリストはいつか再びこの世界を新しくするためにこの世に帰って来られるという聖書の約束)を待ち望んでいた。それは、世界の王として臨まれるキリストの前にひざまずき、王冠をお返ししたかったからだというのです。

 女王は一人の敬虔なキリスト教徒であったこと、神の前に謙虚に国民に仕えぬかれたことを深く思わされます。

 

 

           バイク屋さん

用事で出かけるときは愛用の125ccの単車に乗ります。単車の維持で大事なのは、気持ちよく面倒見てくれる町のバイク屋さんです。大手チェーン店は使い勝手が悪く、好きではありません。

 ところが少し前、これまでお世話になっていたお店が閉店してしまい困っていました。探しに探して、やっと見つけました。当方から比較的近いのですが、目立たない場所にあります。修理の必要があってお願いした所、気持ちよく引き受けてくださいました。

 お店の方は真面目で、親切でした。高校時代に免許を取ってから60年近く乗ってきたのではありますが、メカにはめっぽう弱い者にとっては、こうしたお店がありがたいのです。以来何度か修理をお願いしましたが、その都度確実に整備してくださいました。それだけでなく、頼まなかった細部の手入れも黙ってサービスしてくださいます。費用もリーズナブルで良心的です。いつも頭の下がる思いで引き取らせていただいています。

 こういう出会いは、ほんとうにうれしいものです。

              子らの将来

 テレビで、若い世代の自傷事案が増加しているとの報道に接しました。それはこのところ低年齢化の傾向を示しているとのこと。小学生にも広がっています。

 子らを囲むわが国の教育環境には以前から素朴な懸念をもっています。学歴信仰が根強く、机上のが苦慮査定の比重があまりにも大きいです。子らはテストで役立つ知識は求めますが、自然や世の中そのものに触れるところから来る生きた経験が希薄です。

 学力評価がすべてであり、それで人生の勝ち負けが決まると思い込んでしまいます。 嗚呼。

 

 

     医療者への感謝

先日新聞に、医療従事者の方々のうち相当多くの人が(その統計では過半数だった)離職を願っているとの見出しがありました。さもありなんと思うと同時に、コロナ感染拡大のこの数年、これらの方々がどれだけ苦労して対応にあたってくださって来たかを改めて思わずにはいられませんでした。

 テレビをつければ、今やおなじみになった方々が的確な解説をしてくれていました。ほとんどの方がご自身現場で治療にあたりながら、貴重な時間を割いて出演しておられました。そのほか、無数の有名無名の医療者の方々も、黙々と献身的な働きを続けて来られました。

 お医者さんにかかることの少ないものですが、正直今度は、医療職は聖職だと思わずにはいられませんでした。

   医療者の皆さん、日夜本当にご苦労様です。本当にありがとうございます。

 

  人はいつ悟るのだろう?

 かつてベトナム戦争の頃歌われた反戦フォークソングに「花はどこへ行った」(Where have all the flowers gone?)があります。

 野に咲く花は どこへ行った

 野に咲く花は 消えうせた

 野に咲く花はどこへ行った

 乙女らが    みな摘んだ

 ああ人はいつ 悟るのだろう

 ああ人はいつ 悟るのだろう

  作詞・作曲 ピート・シーガー

 

 プーチン・ロシアの軍隊によるウクライナ侵略が続いています。いったこのような愚行が、しかも超大国の一つによって、この21世紀に起こるなどと誰が思ったでしょうか。しかし、起こりました。黙示録の伝える終末は、おとぎ話ではないことを痛感させられます。

 世の終わりまで人類は悟ることがないのでしょうか。

 

 

   人間というもの(その2)

フランクルはフロイトの精神分析や他の精神医学が、心の病の原因をただ性的エネルギー(リビドー)や幼少期の環境にのみ帰して、今、目の前にいるクライアントを分析し"治療"するため、対処を誤ってしまうリスクを指摘します。人間は、彼らが想定するよりはるかに可能性に満ちた存在であると。

 彼が特に高潮するのは、「今、在ることの意味」です。どんなに心病み、混乱している人であっても、その置かれた状況がいかなるものであっても、彼が生きている限りそこには「意味」がかならずある、その意味を見いだす時、彼は改善へと向かうというのです。

 フランクルはこの事実を、ナチスの強制収容所という限界状況の置かれた人々と、やはりそこを経験した彼自身を観察する中で確信するようになったのです。

 

 

      人間というもの

 ユダヤ人の精神医学者で、二つのナチスの強制収容所を経験したヴィクトール・フランクルは、その経験から独自の精神医療を提唱しました。もちろんフロイト精神分析初めもろもろの説を踏まえたうえですが。

 彼は多くの学者は自分の立場から一面的にしか人間を捕らえておらずもその結果、臨床医療も不十分なものとなっているとします。

 彼は言います。(ある人々がともすると固執するように)人間は育った環境や、自己防衛の意識だけで決定されてしまう存在ではない。未来に向かって自己決定する可能性を持った存在(実存)だと。

 「結局のところ」人間はアウシュヴィッツのガス室を考案した存在です。しかしこのガス室に、「主の祈り」や「シェマー・イスラエル」を唱えながら、毅然と頭をもたげて入っていったのも人間なのです」と(vフランクル「ロゴセラピーのエッセンス」新教出版社より)。

 

 

       教会~キリストのからだ

「温室や工場で作物を栽培する科学技術が高まっている。たしかに生産力は高まったかもしれないが、農業という太陽と土に親しむ労働の意義は忘れられつつある。農業の原点は食料の生産を通じて人々がつながることだった。」霊長類学者で京都大学前総長であられた山極寿一破格は新聞紙上でこのように述べておられました(朝日新聞2022.2.11)。

 機械化、合理化が進む中で、人間本来の労働の意味が薄れ、労働の中で保たれた有機的なひとのつながりが希薄になりつつあります。これは社会にとってある意味危機的な状況です。

 教会というものについても考えさせられます。筆者が神学校時代、教えてくださったある先生がわたしたちに語られた言葉を折に触れて思い起こします。「教会というのは、一人が大きなことを成し遂げるよりも、歩みは遅くてもみんなで力を出し合うことがは大切なのだ」と。ともするとキリスト教界でも効率主義、業績主義が当然のように受け止められる風潮の中、このような発言はどれだけ理解されるでしょうか。しかし筆者は、昨今改めてその意味するところをかみしめさせられるのです。

 奉仕というと、特別な賜物によって目立った活動をすることと考えられがちです。それもあるでしょうけれども、大切なことは、どんなに小さなこと、些細と見える事でも、みんなで分かち合うことだと思います。それによってつながりが生まれます。共に仕える喜びが生まれます。みんなが参加することができます。主の喜びもそこにあるのではないでしょうか。

 

 

       時を生かす

 年の初め、自分のライフ・プランの見直しをします。人生の中で、この年どう過ごすか、計画を立てるのです。

 その中でも大切にしているのは読書計画です。今年こそはと読みたい本、読むべき本のリストを作ります。しかしいつもながら、振り返ると願いのいくらも読めていません。去年もそうでした。その場その場の「忙しさ」にかまけてしまっているのです。

 どうしたものか、と考えて小学生の時、学校でやらされたように、一週間の時間の使い方を表にして考えてみました。でもやってみるものですね。優先順位を検討することで、とても無理と思っていた読書時間の捻出が案外できることが分かりました。時間に追われるのでなく、時間を賢く使いたいものです。

「時をよく用いなさい」との聖書の言葉(エフェソ5・10)が身に沁みます。

 

       分かち合い

 ある信徒の方が先日、久しぶりの教友との語らいの後で、「分かち合い」によって力を与えられた、と話してくれました。

 コロナによって分かち合いが妨げられてきて、それがどんなに大きな損失であるかをわたしたちも痛切に感じてきました。「分かち合い」「シェアリング」、それはまさに聖書の言うkoinoniaコイノニアです。

 コロナ過はなおしばらく続きそうですが、わたしたちは祈りと工夫によってお互いの分かち合い--喜びも悲しみも、試練や課題も--を保つよう心がけていきましょう。道は必ずあるはずです。それによってお互いがどんなに大きな力を与えられることでしょうか。

 

 

 

        庭掃除

 筆者の父親は家の掃除に結構うるさくて、わたしたち子供にもよく掃除をさせました。わたしの場合、庭掃除が割り当てでした。ある時、庭(敷地内の土間です)を掃くよう言いつけられました。「だってごみなんかないよ。」私が言いました。見たところごみなどありません。それでそういったわけです。すると、思わぬ答えが返ってきました。

「だから掃くんじゃないか」と。そのときは言われるままに掃きましたが、その言葉の意味はわかったようなわからなかったような感じでこれまでずっと記憶の隅に残っています。

 折につけてその意味を考えてきましたが、昨今思うのは、一見きれいだからこそ、掃いて隠れているごみを集めるんだという意味かなと。確かにきれいに見えていても掃いてみるとけっこう小さなごみが出て来るものです。人の心もそんなところがあるかな、なんてことも考えます。

 

 

          イエスは主なり

 筆者の最も尊敬する伝道者の一人が故スタンレー・ジョーンズ師です。アシュラム聖会の創始者である師のメッセージの中心はイエス・キリストこそわれらの主、人生の主、世界の主であるというものです。

 イエス・キリストは救い主としてキリスト者の王なるお方、全生活のの主であるべきお方です。ジョーンズ師は、キリスト者はこのお方に全存在をまったく明け渡す(サレンダー:降伏する)できものであると常に説かれました。

 同時に師は、それは一人キリスト者の人生のみに関わることではない、キリストは創造者として自然界の主、世界の主であることを強調されました。そして、キリスト者が真にイエスに全存在を明け渡し、従う時、心だけではなく肉体も健やかにされるのだと大胆に語られました。さらに、歴史もまた神の法則のもとにあるゆえに、イエスの他を生かす愛に道を開けることなくして、世界の真の平和はないことを証しし続けられました。世の現状は、人間の知力、権謀術策のみが崇められ、結果としてますます混乱の様相を呈していますが、ジョーンズ師の説かれた聖書の真理の道を思い起こさずにはいられません。

 

 

        試練の効能

 「イェスは火のごとき試みにも 勝たせて恵みをさらにたもう」(新聖歌201番2節より)という賛美がありますが、本当にそう思います。人生を振り返る時、耐えられないようなつらい境遇を通らされた時が思い起こされます。その時は「なぜ?」「どうして?」と思いました。つらくてたまりませんでした。しかし、今つくづく思うのは、そのような試練を通ったからこそ、いかなる困難にも耐える強さがいささかなりとも身についているということです。神は無駄に暗黒の経験をさせなさらないお方です。

 

 

       あけびがなった!

裏の空き地に置いた鉢に植えたアケビの木に、今年はじめて実がつきました。毎年春にはたくさんの白い花はつくのですが、みな枯れて落ちてしまいました。

ことしもだめかな、でももしかしたら、と思っていましたが、たった一つだけ、小さな実が残ったのです。

 この夏その小さな実は少しずつ大きくなり、大きな白い実となりました。筆者の知っているアケビの実は茶色や紫だったと思うのですが、これはずっと白いままで、興味深く思って観察していました。

 このアケビの実が、数日前にぱっくりと割れて、白い

 綿で包まれたあの種の房があらわれていたのです! 子どもの頃山で親しんだアケビは筆者にとって特別思い入れのある存在です。やっと庭で実をつけてくれました。本当にうれしい年になりました。 

 

                       

            声をかけよう

 若い世代で自死することが増加しているとの報道がありました。コロナ禍ゆやSNSでのいじめなどが影響しているようですが心が痛みます。一方、高齢化社会となり、一人暮らし、二人暮らしのお年寄りが増えていますが、「生きていて申し訳ない」「死にたくてもしぬわけにもいかない」という声も意外に多いのです。

 お互いの身近にこうした老若の人たちが満ちています。わたしたちは今日出会う人にせめて一声をかけようではありませんか。その一声で明るくなれる人があります。

 

           今が一番いい

テレビでインタビューを受けたあるご高齢の方が、「あなたにとって一番よかったのはいつですか」との質問に、ほぼ即座に「今が一番いい」と答えておられました。

 思わず「ああ、すばらしいな」と言ってしまいました。今が一番いいと思える人生は幸せだな、というのと、案外多くの年配者はそう感じているのではないかな、という思いでした。筆者自身もそういう感じです。

 「いい時」というのは、万事順調で「いい」ということではないと思います。初めに触れた方も、決してそういう意味ではないと感じられました。それはつまり、身の回りが順調であるか、そうでないかということなのではなく、どんな環境にあっても、ほぼその中で、穏やかに受け止められる気持ちに至っている、という思いではないかと思います。

 筆者の尊敬する故スタンレー・ジョーンズ博士(インドなどで伝道したアメリカ人宣教師、アシュラム運動の創始者)は言われました。50代の時には、今が一番いいと感じた、60代になったら、やはり今が一番いいと感じた、70第になったらやはり今が一番いいと感じる、と。そこにはそう感じる自分の充実がある、ということかと思い

                             ます。年がいくつでも、「今が一番」と感じられる自分でありたいと思

                             っています。

 

        平和の構築

 わが国の憲法には、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する旨うたっています。あの悲惨な戦争の体験を背景に生み出された条項です。

 日本が侵攻したアジア、太平洋のの国々の人々だけではなく、わが国民自身が兵士として、また銃後を守る民として体験した余りにも悲惨な体験がそこには裏打ちされているはずです。近代戦争には勝者も敗者もなんいと言われます。あるのは破壊と悲惨のみです。しかし、今日、わたしたち多くの国民の知らない所で、この規定が骨抜きにされ、有名無実なものにされつつある現実があります。

 

 

 

      聖なる無関心

「聖なる無関心」~適切な表現なのかどうかわかりませんが、若き日に耳にし、忘れることのできない言葉です。

 筆者の初任地、長野県の下諏訪町のお隣、上諏訪の教会の名誉牧師であられた故佐藤ハツ先生(「祈祷の生涯」の著者・故佐藤雅文先生の夫人)が、ある時ふと口にされた言葉です。先生の生きる姿勢をこの言葉で語られたのだと思います。

 各人の人生では、他人からの思わぬ批判や評価(良きにつけ悪しきにつけ)にさらされるものです。そんな時、それら外からの雑音に過剰に反応して振り回されるのでなく、自分の道を黙々と歩み続ける心がけを示されたものでょう。他からの批判や忠告に謙虚に耳を傾けることは大切なことです。しかし、誠実であろうとするあまりそれらに振り回され、卑屈になり、自分を見失ってしまうことは決して健全なありようではないでしょう。「聖なる無関心」とはその辺のところをうまく語っているように思わされることです。

 

 

     まじわりを補うもの

 コロナ禍のもとでの日々も1年半、三十尾の悪い中、手探りで歩んできました。「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる」との詩編91のメッセージに励まされて歩んできました。

 しかし、この制約された日々の中で痛感させられたのは、教会にとって交わりがいかに大切なものか、ということです。制約されてみてそのことを身に染みて感じさせられました。

 感染防止の対策はいずれも、近寄らない、しゃべらない、集まらないという、人と人をいかに隔てるかという趣旨です。ウィルス感染の拡大を防ぐという点からすればまさにその通りなのでしょう。しかし、人は他との交流あってこそ生きることのできる存在です。まして信仰のみによって結ばれた教会はなおさらのことです。コロナの現状は、ほんとうに重くあります。

 自由に語らい、食し、祈り合う、そのような日が再びやってくることが待たれます。けれども、待つだけではなく、制約の中にあっても、どうしたら交わりを維持し、また深めることができるか、祈りのうちに教えられたいと思います。

 

 

          想像世界の解明

二十世紀には、宇宙に働くあらゆる力の解明とそれらの相互関係、そしてその総合的理解と言う点でかなりのところまで到達したと考えられます。

 通常世界に働く力を回目するニュートン力学、それよりはるかに規模の大きな世界を支配する相対論的力学、極小の世界に働く力を解明する量子力学によってほぽ全貌を説明できたかと思われました。その体系的理解は「標準理論」といわれますが、それでも説明のつかない現象があります。特に宇宙の全質量の97%を占めると言われるダークマター、ダークエネルギーの解明は手つかずに近い状態だと言われます。

 最近、「標準理論」の不備を証明する観測結果が報告されました。ノーベル賞クラスの業績です。その確認作業はこれからですが、大いに期待されるところです。それにつけても、わたしたちの存在する宇宙というのは、なんと驚くべき現象でしょうか。それは、偶然によってではなく、驚嘆すべき構造と運動法則によって保たれているのです。さらなる宇宙の解明が待たれます! 

 

 

       幼い子ら

 5月は遠足シーズンで、コロナ下ではありましたが近くの県立公園には幼稚園や保育園、小学生の子らが入れ替わり立ち代わりで来ていました。

 2、3歳くらいの子供たちが、保育士さんたちに引率されて歩いている姿はなんとも愛らしいです。きょろきょろあたりを見回しながら無心に歩く彼らは本当に天使のようですね。この子らが、それぞれに与えられた環境の中で成長していくわけで、その幸せを願わずにはいられません。また、この純真な日々に、神の豊かな愛を呼吸させてあげられたら、と願わずにはいられません。

 

 

 

       しんどいけどおもろい

 先日NHKの朝ドラ「おちょやん」が終わりました。女優浪花千恵子さんの人生を題材に制作されたドラマでしたが興味深く見させていただいてきました。

 大変な苦労をして女優となり、喜劇を演ずる劇団の座長の妻にもなって活躍するのですが、その旦那さんの浮気がもとで離婚することになってしまいます。傷心のうちに舞台から退き、世間から身を隠していたお千代さんでしたが、関係者が熱心に彼女を探し、説得し、ついに役者に復帰します。劇団に戻り、前の夫と舞台に立ったとき、脚本に絡めて劇の締めに口にしたセリフは「生きるゆうことはほんましんどいけど、おもろいなあ」でした。

 彼女の人生、そしてわたしたち皆の人生をうまく言い表しているなあ、深いなあ、といたく感動するとともに、こんなふうに人生を振り返ることができたとしたら、それはほんとうに幸いだなあ、と思わされたことでした。

 

 

        生命の力

 毎年のことなのですが、新緑季節を迎える小生は落ち着かなくなります。それは、身の回りの草木が一斉に芽吹き、日に日にその新鮮な若葉が成長していくようになるからです。

 新芽や若葉の輝くような、やわらか緑は、生命の力を示しています。目にするたびに、その生命の力がこちらにもみなぎってきます。わくわくしてきます。

 世の中には望まない、苦しみや暗い状況がたくさんありますが、神の摂理、神の統治はその中で少しも変りなく進められていることを、新緑の季節の中で思わされます。

 

 

 

       先人に学ぶ

 ひところ「生涯学習」と言う言葉をよく耳にしました。人間いくつになっても学び続けることが大切ということだと思います。

 駆け出しの伝道者の頃、ある先輩から、「学び続けることが大切だよ。一年後の奉仕に違いが出てくる」とも言われました。それはともかく、生きる限り人は変遷していきます。絶えずあらたな「肥し」が必要なゆえんでありましょう。

 お互いに先達、特に信仰の先達の残した古典にしたもうではありませんか。駆け足で過ぎ行く人生の時間の中で、たとえ少しずつでも、繙いてみませんか。

 

 

 

     神は小さな祈りをも聴きたもう!

 物質を構成する最小単位と考えられる超微細な粒子が素粒子と言われますが、すべての素粒子には質量が全く同じで、電荷が反対(プラスまたはマイナス)の相手(それらは出会った瞬間に消滅してしまうのですが)があると言われます。それらは、互いに何千キロ離れていても、重力を伝える媒介と考えられている重力子などは何光年離れていても、相互に作用し合うと言われます。

 このような極小の素粒子が、遠大な空間を貫いて相互に作用するという事実は驚くべきことです。

 わたしたちは、地上の数十億の人々が日々捧げる祈りのことを考えます。神は、かくも多数の人々の祈りを聞いてくださるのか、またそのひとりひとりはいとも小さな存在であり、一つ一つの祈りは余りにもささやかだが、神はそれらを聞き分けたもうのか、と考えがちです。しかし、それは間違いです。小さな粒子の対が、両者をへだてる莫大な距離や、空間を貫いて相互を認識、作用するとすれば、この宇宙を創造し、保持している神は、わたしたちの小さなひとつひとつの祈りを聞き漏らすことはないと言えるでしょう。わたしたちがきょう捧げるいと小さな祈りも、漏れることなく神に聴き分けられているに相違ないと思うのです。

 

 

    コロナ禍の収束を願う

昨年来世界を侵しているコロナ禍です。医療機関はもとより、行政府、そして社会全体が懸命に対応しております。

 治療薬、ワクチンの開発、感染防止策の徹底などが進められていますが、いま一つ決め手がありません。専門家のある方々は「平常」にもどるのにはあと2、3年かかると言いだしています。そんな中で、経済がひっ迫しています。事業者の経営もさることながら、そこに端を発するように人々の暮らしは直撃され、日々の生活が苦しいものとなっています。

先の見えないこの苦境は、まさに世界大戦に匹敵する困窮です。

 古代イスラエル王国を確立したダビデ王は、その施政において神の前に過誤を犯したことがありました。神への信頼を欠いたその失政は咎めを負うこととなりました。その結果、神はある期間国土に死の疫病をもたらしました。

たちまちのうちに無数の国民が疫病によって斃れていくのを眼前にしたダビデは、たまらず神に向かって叫びます。「ご覧ください、罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群が何をしたのでしょうか。どうか御手が私と私の父の家に下りますように! 」と。そのとき神はこの災害をもたらす天使に「もう十分だ。その手を下ろせ」と仰せになったと言われています(サムエル記下24章)。

 この度の悲惨の原因が何なのか簡単に結論付けることは今はできませんが、わたしたちもダビデと共に「もう十分だ。その手を下ろせ」との神のみ声を聞くことを願ってやみません。

 

 

        男女平等

 前東京オリンピック組織委員長の失言から、後任者選定も絡んで、女性蔑視や性の平等についての議論が起こりました。このことについては、各ご家庭でもいろんな話し合いがなされたのではないでしょうか。

 聖書には、神さまは人間を「男と女に創造された」(創世記1・27)とあります。含蓄は深いと思います。

 神が両性を造られたということにおいてどちらも尊厳においては全く同等です。また、異なるものとして造られたという点では、それぞれの固有の持ち味が与えられていると取ることができます。

 どちらのジェンダーも軽んじられてはならないと思います。違いは優劣ではないでしょう。この点がともすると見落とされ、男尊女卑の誤った風潮が支配してきました。

 一方、女性解放が叫ばれ、その運動が進展する中で、ともすると両性の固有性が無視され、画一的な平等を両性の平等と取り違える行き方もともすると主張されることがあります。固有性を見落としていると言えましょう。

 ともあれ、この問題についての既成の見方、考え方にとらわれないで、見直しをしていくことが求められていると言えましょう。

 

 

      コロナ禍のもたらすもの

 ブラジルでワクチン接種が進められているとのニュースがありました。はじめ大統領はコロナ対策を軽視していました。しかし、今やそれでは済まなくなりました。同じことはイギリス、アメリカ等の国々でも起こりました。わが国当局も当初からコロナを軽視していた節があります。

 しかしその後、情け容赦ないコロナ禍の拡大は、尊大な政治家たちの軽薄さをあばきました。時にはその座から引きずり下ろしました。それはなお全世界を巻き込んで進行しつつあると言えます。その全貌はどうなるの

                                           か、いまだ予測できません。粛然とさせられ 

                                           ます。

 

 

        本との出会い

 最近、C.S.ルイスの本を少しずつ読んでいます。前から著作集をもっていたのですが読む機会がありませんでした。

 ルイスと言えば「ナルニア国物語」の著者というくらいしか認識がなかったのですが、今度読んでみて、その学識もさることながら、信仰の世界への洞察の深さに驚嘆させられています。彼は英国聖公会の信徒であったのですが、その思索に触れると、在野の神学者、伝道者と言った印象を持たざるを得ません。それほど圧倒的な言葉を持つ人物だと言えます。

 K.バルトはルイスの思想に新プラトン主義的なものを感じ、批判したとの解説がありましたが、逆にそれほどにその影響力を認めていたともいえるでしょう。また、アメリカの大統領ニクソンが失脚したあのウォーターゲート事件で連座して裁かれた補佐官、チャールズ・コルソンは、親しい友人からC.S.ルイスの「キリスト教の精髄」(原題"MERE CHRISTIANITY")を贈られたと言います。彼はキリスト者となり、服役後は刑務所の改善、服役者への宣教を行う事業を立ち上げました。

 それはともかく、彼の著作、講演に触れつつ、筆者は心揺さぶられる思いがしました。これからもその著作を通して学ばされたいと思わされています。

 筆者の小さな人生の中で、本を通して出会ったわが生涯の師の一人はスタンレー・ジョーンズ博士です。このたびのルイス氏との出会いは、もう一人のわが生涯の師との出会いとも言え、心躍る思いです。

 

 

       真冬のライラック

わたしたちの教会の前に置かせていただいているライラックですが、例年、夏に伸びてくる若枝はすべて選定していました。けれども、昨年は敢えて切らずにそのまま伸ばしておきました。それで、新しく芽生えた枝はずい分たくさん伸びました。そしてその状態で秋を迎え、冬に入ったのでした。

 そのせいなのか、昨今の陽気のせいなのかわかりませんが、秋も終わりに近くなってから、古い枝の先に花芽がついたのです。実は前年の晩秋にも花が咲きました。その時はいわゆる「狂い咲き」かと思っていましたが、この冬も花芽がついただけでなく、枝先という枝先についたのです。そして、そのうちのいくつかは真冬になって花開いたのです。開いた花も、まだ開いていない花芽もそのままで年を越し、寒中を迎えています。その寒さの中でも小さな花は淡いピンクの色をのぞかせています。

 ライラックは寒冷地に向いていることは知っていましたが、この真冬に花をつけることは不思議でなりません。ともあれ、その生命力に感動しています。

 

 

          キリストの教会 (つづき)

 「礼拝共同体」としての教会は、確かにその見える証しとしては日曜日ごとの礼拝があるでしょう。それが教会の背骨であることは事実です。けれども、それだけではないのではないか。日曜日の礼拝という外面的な事柄で終わるものではないのではないか。すなわち、見える、日曜日の礼拝が困難な時も、異なる形で教会は確実に存在していると言えるのではないかと考えます。

 教会の歴史には、疫病ではないが定められた礼拝を守ることが妨げられた時がありました。豊臣、徳川政権の時代のキリシタン禁制、第二次大戦時の政府によるホーリネス系教会の解散命令、牧師職のはく奪のときも、教会は公式の、定められた礼拝を守ることはできませんでした。そのような時、信徒たちは「潜伏キリシタン」として地下礼拝を守ったり、戦時中は他の教派の礼拝に参列したり、家庭での集いをもったり、あるいは集いに参加することなく個人レベルで内面生活を送ったことでしょう。しかし、そのような時であっても、キリストの体なる教会は全く失われていたのではなかったと思うのです。

 それぞれが、置かれた場で同じ主を仰ぎ祈る時、また、絶えず主にあって他の教友を覚える時、間違いなくそこにも教会が見えざる共同体として存在していると思うのです。この事実を共有し、このような状況の中にもお互いを祈りのうちに覚えつつ進みたいものです。

 

 

        キリストの教会

 コロナ禍も年末・年始以降、秋の状況とは異次元の拡大局面となっています。わたしたちの教会ではこれまで礼拝を休むことなく歩んできましたが、ここは自粛ベースで対応せざるを得なくなっています。先日から、できる方には自宅で祈りの時をもっていただくようお願いをだしたところです。

 教会の生命ともいえる礼拝に支障をきたすこととなって、改めて「教会ってなんだろう」と考えさせられます。通常の礼拝ができず、絶えずお互いが顔を合わせることができなくなったら教会は事実上消えてしまっているのだろうか。それによって「礼拝共同体」であることは停止してしまったのか。そうでないとすれば礼拝共同体としての実体はどこにあるのか、と。通常(?!)であったころにはあまり考えなかったことです。  (つづく)

 

 

        日差しは春

 一月のまぶしい日差しが好きです。当時を過ぎて二週間、日差しはもう着実に強くなっています。

 この時期、寒さは絶頂を迎えるのですが、自然界は春に向かって前進しています。近くの公園の梅園では、暮れの十二月の半ばから早くもちらほら梅の花がほころび始めています。現在は無数の花がついています。その他の植物も、たしかに春への備えを始めています。

 世の中はコロナ禍で大混乱です。しかし、地球の公転にともない、少しずつ昼が長くなり、日中はまぶしいくらいです。この明るさが

ともすれば暗く沈みがちな、そして寒さに縮み

がちなわたしたちを力づけてくれます。

 

 

   日本人は変わりゆくのか

筆者はことさらに国を持ち上げたり、称賛するものではありませんが、日本人の持つ優れた面を認めるにやぶさかではありません。

 もともとわが国民は真面目且つ勤勉であったと思います。

 キリシタン宣教師のある者が、この国民性に驚嘆し、本国に報告したと伝えられています。

 けれども昨今の世相とくに公職にある人々の言動には心が寒くなります。

 うそ、不正、居直りなどが常態化しています。それは社会全般にも影響としていると思われます。恥を知らない、卑屈な民となるのでしょうか。

      光の芸術

 しばらく前、曇り空の日々がありました。しかしこのところ、最近には珍しく澄んだ青空が続きました。

 筆者はいつも、カメラを肩に近くの自然公園を散歩しますが、空が晴れて陽光がさすと、同じ自然界も曇った日とは全く異なって、美しく輝きます。撮りたい場面ががぜん多くなります。そんな時、いつも思います。カメラで物を撮っているのではない、光を撮っているんだなと。

 よく撮影現場では「照明さん」というスタッフがいますが、陽の光はまさに最高の照明さんです。同じ人生も

神さまの恵みの光に照らされる時、美しく輝き始めます。

 

 

      価値観の基礎

 経済さえよければモラルを問わない、自己本位な指導者、国民が「かの国」にも少なくありません。その指導者の言動に対して語る言葉がない筆者です。

 一方わが国でも「目先の利」最優先でモラルをないがしろにする風潮が勢いを増しています。不正、隠蔽、虚偽、威嚇が横行しています。真の価値観を知らないなら人は、真実、正義、人権などの普遍的価値の重さ、尊さがわかりません。

 「主を畏れることは知恵の初め」と聖書にありますが(箴言1・7)、神を畏れ敬うこと知ってこそ、普遍的価値に目が開かれるというものでしょう。

 

 

          青い空、白い雲

 コロナ、酷暑と大変な試練の夏が続きましたが、そんな中でうれしいことがありました。それは真っ青な空と、そのカンバスにあらわれる真っ白い雲の美しさを堪能することができたことでした。

 例年のことは余り記憶にないのですが、今年はどれほど感嘆しながら眺めたことでしょうか。ということは、コロナ禍で経済が停滞したことで、大気汚染が改善したのでしょうか。

 ともあれ、澄んだ空の青さをバックに千変万化する白雲をたのしませてもらったのは、コロナ憂鬱な日々であったがゆえ?と考えると、何か不思議な思いです。

 

 

       女性の解放

現代ぷろだくしょんの山田火砂子監督の作品「一粒の麦・荻野吟子の生涯」が地元の会場で上映され、鑑賞しました。

 明治の初め、御自身の病の経験から、女医になることを決意、男性優位の日本社会の中で、女性に光をもたらす先駆けとなられた生涯が描かれていました。

 舞台挨拶には、御年88歳という山田監督ご本人が立たれ、ちょっとした講演ともいうべきご自身の思いを吐露されました。女性の解放にかける気迫を感じさせました。

 映画では、開国間もない日本で、まだ女性の医師など想定もされていない中、というより女性を医師とすることを認めようとしない状況のなかで、想像を絶する屈辱と困難を越えて医者となられた苦闘、女性の解放のための努力の姿に教えられました。

 日本の社会に住み慣れ、頭ではわかっているつもりでも、本当には分かっていない自分に気づかされ、自分の課題として受け止めていこうと思わされたことです。

       創造の神

 「初めに神は物理法則を創られた。そしてエネルギーの塊から物質と反物質を創られた。物質のほうがほんの少し多かった。同量の物質と反物質は消滅し合い、エネルギーに戻った。本詩少し多かった物質が残った。そして神は天地を造られた。」(「科学者はなぜ神を信じるのか」三田一郎 講談社ブルーバックス)より。

 このことばは著者三田博士が創世記の冒頭の言葉を御自分なりに解釈し、もじって書かれたものです。たいへん興味深くよませていただきました。

 博士はカトリックの助祭で名古屋大学名誉教授(素粒子物理)という変わった肩書をおもちです。ご両親がカトリック信者で、子ども頃洗礼は受けておられましたが、長年信仰には無関心で過ごされました。しかし、反粒子の研究で著名なディラックに傾倒し、反粒子そして宇宙の初めについて研究するうち、50代になられてから、この世に物理法則が存在する不思議に改めて心動かされ、宇宙をそのようにあらせている神というものに開眼して行かれました。三田博士によれば、科学は常に「その次」を研究課題とするものです。アインシュタインの相対性理論に登場する「特異点」を解明したホーキングは、それは宇宙の始原に存在した無限小にして無限大のエネルギーをもつ点であるとして宇宙に始まりがあったことを示したと言われます。しかし彼の探求はそれで終了したのではなく、宇宙の発生のメカニズムを構想していたといいます。三田博士も科学者としてその探求に関わりつつも、この宇宙に、数学的に叙述し得る法則があるという事実あってこその探求であることに気づき、神の存在に大きく心動かされることとなったと語られます。

 新書版の冊子ではありましたが、久しぶりに感動した読書でした。ちょっとした物理学史、読み応えのある一冊です。

 

        理念なき政治風土

 思想史家、政治学者である丸山眞男は、わが国の風土には「思想」が希薄であることを繰り返し指摘しています。

 思想、哲学は教養のバロメーターであっても個人や社会の在り方に宿ることはまれであると。確かに、わたしたちの社会(そして個人)の規範は、思想や哲学とは違う所にあってそのありようを規定するように見えます。これはわが国の政治のありようにも表れていると思います。政治課題に取り組むに、理念を語ると「書生論」として切り捨て、目先の実利、打算のみが尺度とされる傾向があります。

 このような在り方は平時においては一定の評価をえることができるでしょう。しかし、非常時が訪れた時、あるいは未曽有の事態に直面した時、何らなすすべを知らないでありましょう。理念がないからです。筋道立てて政策を検討してこなかったからです。

 このたびのコロナ禍、また地球環境の劣化、差し迫ったエネルギー問題などは、理念なき社会、理念なき政治の限界を情け容赦なく暴くことでしょう。

        受   難

 昭和17年6月26日、大戦下の検察は全国そして外地のホーリネス系教会の手入れを行い、教職は拘引、役員は事情聴取をされました。

 多くの教職はそのまま留置そして投獄されました。治安維持法違反、天皇への不敬など当局のでっちあげによる「ためにする」弾圧でした。その約10年前、再臨信仰の脱線のため教界内外から注目を浴びていたこともあったと思われますが、取り調べも裁判も話にならないずさんなものでした。多くの牧師、信徒は、不正の裁きを忍ばれた主イエス・キリストを思いつつ、敗戦までの苦難を耐え忍んだのです。

  主よみもとに近づかん

先日、SNSで紹介されていたある演奏会の動画を観ました。おびただしい観衆の前でオーケストラがおなじみのクラシック曲や讃美歌を演奏していました。指揮者はよく知られた方のようでした。

 筆者が聴いたのは賛美歌「主よみもとに近づかん」です。「主よみもとに近づかん 上る道は十字架にありともなど 悲しむべき 主よみもとに近づかん」という歌詞は余りにも有名です。厳かに演奏が始まり、優れた歌手たちが静かに、そして力強く賛美を始めた時、それを聴いた筆者の胸が突然熱くなりました。この讃美歌はあのタイタニック号が沈んだ時、乗船していた演奏家たちが、人々が逃げ惑うなか、最期まで演奏し続けたと言われる讃美歌です。今、世界の無数の人々が(わたしたちも含めて)コロナ禍にさらされ、困難を耐え、戦っています。それは楽観を許さない厳しいものです。しかし、わたしたちは誰も一人ではない、主のまなざしはそのようなわたしたち一人一人に変わることなく注がれているのです。

 

 

 

 

       神さまの祝福

 聖書を見ると、神さまの祝福は抽象的ではなく、具体的な形をとるのだということがしばしば言われています。ややもすると私達日本のキリスト者は、目に見える祝福のことを語ることをはばかり、品のないことのように考えます。確かに世的祝福が前面に出ると、いわゆるご利益信仰となり、本末転倒になりかねません。でも、だからといって神さまの祝福はわたしたちの生活全般をカバーするものなのだという聖書の豊かな約束をさげすむことは情けないこです。神さまは御自分を愛する者の家庭、健康、経済、仕事全般を確かに祝福してくださるのです。 「数えて見よ、主の恵み」(新聖歌172)

 

 

      バベルの混乱

 聖書・創世記に記された人類の原初史のひとこまに「バベルの塔」があります。ノアの大洪水を生き延びた人類が地上に増え広がった時、彼らはレンガ、アスファルトなどの新しい基幹素材を手にし、未曽有の物質文明を形成しました。人々は飽くなき経済発展神話と欲望にのめり込みました。神はその時、未知の方法によって介入し、人々の言語を混乱させ、コミュニケーションを不能にしてしまいます。それによって発展神話の象徴バベルの塔の建造を挫折に追い込んだと聖書は語ります。

 今回のコロナ禍とそれがもたらす混乱と分断(コミュニケーションの分解)を見ていると、バベルの混乱は昔のおとぎ話などはないと思わないではいられません。現代の日常を根本から振り返らざるを得ないおごそかさを感じます。

 

 

      危機の時のありよう

 太平洋戦争の時、ホーリネス教会は政府によって解散を命じられました。当時外地で伝道していたある先輩牧師は、突如奉仕の道を奪われ、徴用の従事することになりました。非常事態です。

 牧師の肩書はもうありません。一般人として社会生活を送ったわけです。しかしこの先生は、ここでキリスト者としての、また伝道者としての姿勢をおろそかにすることは、神の名を汚すことになる、と自分に言い聞かせ続けたとよく話してくださいました。

 現在まれにみる危機的な情勢の中にお互い置かれています。しかしこんな時こそ、キリスト者として、神と人の前にどう生きるか、お互いの真価が見られ、問われているのだと思います。

 

      試練の意味

 新型コロナウィルスをめぐる混乱の中で、ユダヤ人精神医学者ヴィクトール・フランクルの著書の一節を思い起こしています。

 彼はナチスのユダヤ人強制収容所を体験した人です。想像を絶する恐怖と絶望の中で彼は医学者として自他の状況を克明にメモし、ひそかに保持していました。後に奇跡的に生き延びた彼は、それらの基づいて有名な「夜と霧」などの本を著しました。彼は言います。「人生(の苦難)に意味などない。しかし、その中を生き抜いていく者にそれは姿を現すのだ」と。ある意味逆説的な言い方ですが、しかし生きるわたしたちに不思議な納得と慰めを与えてくれます。

 今の世界の試練の意味はすぐ分からないだろう。けれどもそれでよい、やがて必ずそれは形を成し、姿をあらわすことでしょう。いまは一歩一歩耐え忍んで進みたく思います。

 

 

      けがの功名?

 賛否相分かれる小、中、高の一斉休校も二週間がたったようですが、この間いろいろ考えさせられました。

筆者が通りを歩いていると、あちこちでこどもたちが仲間と過ごしている姿を見かけるのです。恐らく最初は家にじっとしていたのでしょうが、それもいつもでも続かず、外に出て友だちと合流し、遊んでいるのでしょうか。公園で釣りをしている子ら、自転車を連ねて通りを走る子ら、広場で遊ぶ子ら。変な話かもしれませんが、このような風景は妙に懐かしさを感じさせるのです。昔はこどもたちはみんなこんなふうだったなあ、などと。

 いつのころからか、こどもたちからこんな

時間や空間がなくなってしまいました。こん

どのことは決して喜ばしい事情ではありま

せんが、逆に社会のありよう、こどもたちの

ありようを見つめなおすよい機会をあたえて

くれたのかも知れません。

     稀有な経験

新型コロナウィルスの感染症が中国はもとより日本を含む世界各国に拡散し、脅威となっています。

 まだ特効薬がないこと、無自覚な感染者も知らないで感染させてしまうらしいこと、感染後治癒し陰性となっても再度陽性に転じる場合があるらしいことなどが不安感を大きなものにします。

 しかしペストの流行はもとよりスペイン風邪の猛威のこともあまり知らない筆者にとって、このたびのことは稀有な体験です。国内はもとより世界にパニックが拡散していくプロセスのさ中にいるのですから。とりわけ人と人、民と民の関係崩壊のいたましいありようは忘れることはないでしょう。

 

       こどもは天使

 用事があって通りに面したドアを開けて外へ出ると、ちょうど近くの保育所のこどもさんたちが保育士さんたちに連れられて通るところでした。

 彼らと目が合ったのでしゃがんで目線を合わせ手を振りました。するとかれらも笑顔で手を振りながら進んで行きました。と、後ろの方にいた男の子がこちらの方に寄ってくると、大きな目を輝かせながら言いました。

「あのね、ひな祭りのお人形をがサタンだよ!」

 「そう、それはよかったね!」とこちらがほほ笑むと付き添いの保育士さんも笑顔で答えてくれました。

 純真なこの子らのしあわせを祈らずにはいられません。この

天使たちにこの国の、いや世界の将来がかかっています。

      聖霊経験

 明治の半ばに来朝し、島根、神戸を拠点に伝道し、日本の霊界に大きな感化を残したイギリスの宣教師、B.Fバックストン先生の著作集が刊行されてきました。既刊数冊を読ませていただいてきましたが、存在を通して聖なる生活を見せたといわれる同宣教師のメッセージは、キリスト者の聖霊経験の大切さを説いて已みません。聖霊に満たされ導かれるキリスト者となれと、同師のメッセージはそれに尽きます。

 日々聖霊の感化のもとに生かされ

                                               たく願う者です。

 

                    キャベツ

 我が家では毎朝必ずキャベツを食べます。長い習慣です。千切りにし、ニンジンの千切りと一緒にいただくのです。ほぼ一週間に一個使います。面白いのはキャベツが替わるたび、その味わい、固さ、新鮮さなども替わることです。このごろでは最初口にするだけで、その良しあしが分かります。刻みながら、どんな畑で作られたのか、どんな方が作られたのか想像します。

 いい玉に当たった時はうれしくなり、食べる人を喜ばせようと、一生懸命育てる生産者さんのことを想像します。恐らくその想像は大きく外れていないはずです!

 

      パウロ

ある方の勧めで「パウロ」という題の最近の映画をみました。ローマ帝国における迫害のただ中で、裁判のためローマ兵によってこの都に導かれた使徒パウロと同僚ルカを中心に、迫害で試みられるローマ教会の人々の姿を描きます。避けられない殉教の危機を、キリストにあって静かに受け止めるパウロ、教会が直面する弾圧の現実に悩みつつも、使徒の感化のもとで殉教を超えて敵を赦す愛へと導かれる信徒たちの姿がありました。キリストの愛に生きる壮

                                                大な信仰に心を打たれました。

 

 

       被災者を思う

 台風15,19号のもたらした被害はすさまじいものでした。まれにみる強風、それに畳みかける豪雨は恐るべきものでした。

 特に被害の大きかった地方の様子をテレビで見つつ、惨状に衝撃を受けるとともに、被災された方々の心情を思わずにはいられません。

 収穫が見込めなくなった所、工場が使えなくなったところなど、収入の目途が立たなくなった方々、家屋や家財がだめになってしまった方々の不安はどんなでしょうか。

 それでも、前を向くほかはありません。神さまの支えがありますように、復旧の手立てが届きますようにと祈るほかありません。  2019.10

 

 

       夕焼け

酷暑もさることながら、どちらを向いても心がささけるような出来事、課題の山に、いつしか心が沈んでいることに気づくことの多い日々です。

 そんな中、ふと心を解放し、癒してくれるのが夕暮れの空です。その表情は日によって、場所によって変化しますが、紅い夕映え、そしてそれを映す変化にとんだ雲たちと、夕方の西の空の眺めにはなぜか心を静め、安らぎを与える力があります。

「夕べ雲焼くる

                                                 空を見れば、

                                                 主の来たりたもう日の偲ばる

                                                 ああ、神の前に われいそしまん

                                                 業止むる時の、間近きいま」

                                                  (新聖歌148)

                                                 夕焼けはまた、再び来られるキリ

                                                 ストを思わせてくれるものでもあり

                                                 ます。

   ちょっと心暖まる光景

 先日電車に乗っていました。少しすると三人の親子が乗って来て斜め向こうのドア近くに立ちました。お母さんと小6くらいのお兄ちゃん、小4くらいの女の子でした。

 しばらくすると女の子が突然ゲロを吐き出したのです。慌てたお母さんが世話をしていると、今度はお兄ちゃんまで吐き出しました。どこかで食べたものがあたったのでしょうか。乗客たちは初めその様子を見ていたのですが、やがてためらいながらも入れ替わり立ち代わり、ティッシュやビニール袋を差し出しました。筆者の向かい側には作業員らしい若いあ

んちゃんたちが座っていたのですが、

この様子を横目で見ながら、自分たちも

バッグの口を開いてビニール袋を探して

いました。

 あいにく筆者は助けになりそうなものを

持ち合わせなかったのですが、この様子

を見ながらちょっとほっこりさせてもらいま

した。

 

 

 政治屋でなく政治家を

昨今、国内外を見渡す時、そこかしこに、大変困難な問題があります。そして、それらの多くが諸国の指導者たちの姿勢に大きな影響を受けていることに気づきます。

 いまこそグローバルな危機を、協力して解決しなければならないのに、自国の利益、自己の利益だけしか考えない指導者が少なくありません。

 自己の利益しか目に入らない指導者を政治屋(politician)ということができましょう。自国の利益ももちろんではありますが、世界の将来に責任を持ち、普遍的価値を追求する指導者を政治家(statesman)と呼びましょうか。わたしたちは優れたステーツマンの輩出する世界を願ってやみません。

 

 

        主の御手の中に

 主の御手に あるを思えばいまはただ 心やすらに わが身委ねむ

 かつて筆者の知る、ある難しい癌を患い長い間療養生活をつづけたクリスチャンが、放射線治療を受けつつ闘病されたその中で謡った短歌です。

 うっとうしい梅雨空が続いています。こんな時、わたしたちの心もふさぎがちになります。人生にも、この梅雨空のように、試練や困難な問題、絶え間ない責務に閉ざされたような思いがする時があります。息詰まるようなそんな時、わたしたちのただ

                                            ひとつの慰めは、わたしたちの魂がそのま

                                            まに神のご愛の御手の中にあることを深く

                                            思うそのことです。

 

       生命の再生産

 我が家では水槽でグッピーを二匹飼っています。先日、家の者が水槽の間に漂っている小さい赤ちゃんグッピーを数匹発見しました。初めは目を凝らしてよく見ないとわからないほど小さかったのですが、ひと月たちとだいぶ成長してきました。

 様子を観察していると、からだはまだボウフラのように小さいのに、もうお互いを意識し、大人ばりにかけひきをしながら、すばやく泳ぎ回っています。それを見ながら、生命ってすごいな、と感嘆してしまいます。個体が発生し、種類に従って成長し、意識が宿り、活動し、種族を保存、再選さんしていく・・・。大宇宙の中の、チリのような惑星の上で、こんな奇跡が起こっているのですね。

     純真なこども

電車に乗っていると、目の前の車いすスペースにベビーカーに3歳くらいとみられる男の子を乗せた若いお母さんが乗ってきました。見ると男の子は退屈そうしていました。そのうちその子はベビーカーに自分を固定しているベルトを外すと手でつかんでブラブラと振り始めました。小生は自分の孫と同じくらいのその子の様子を興味をもってじっと見ていました。するとふとした拍子に男の子がこちらを見、ずっと彼を見ていた小生の目と彼の目が合ったのです。しかしその後も相変わらず少し不機嫌そうに「ブラブラ」を続けていました。その間時々こちらと目が合うのでした。

 そのうち降りる駅が近づいたらしくお母さんが準備を始めました。すると、まもなく降りることを感じた男の子がこちらを見ると小生に向かって小さく手を振ったのです。それまでこちらにそれほど興味を示す風でもなかったので、この動作に小生は少し驚きました。がすぐにこちらも手を小さく振りました。この子の気持ちがこちらをうれしい気持ちにしてくれました。「バイバイしてくれたよ。」とお母さんに言いながら電車を降りて行きました。

 

 

      近道でなく

 最近、久しい以前亡くなられた小生の卒業した神学校の恩師が遺された説教集をひもどいています。

 この方はすくれた方で、若き日からホーリネス教会の歴史の中心を歩んでこられた方です。戦時中は時の権力によって弾圧を受け、身をもって投獄を経験された方でもあります。戦後は、ホーリネス教会のみならず広くキリスト教界から信頼を集めておられました。

 師は神学論や大演説をふるうタイプではあられなかったと記憶していますが、いわば「叩き上げ」の信仰に根ざすその説教は、実体験に

裏打ちされた、腹の底に響くような

、心から納得させられるような、霊的

力に満ちていました。

 信仰に、伝道に近道はありません。

じっくり聖書の言葉に向かい合い、

養われ、語るものでありたいと、つくづ

く思わされています。

         新緑

 多くの人々に感化をもたらし、教会史にその足跡を残した修道士、クレルヴォーのベルナルドゥス(ベルナール)はね自然界を見、樹々の葉が散っては春になると再び芽が萌え出るさまを見て神の臨在にふれ回心したと伝えられます。彼ならずとも今の季節、林の新緑の美しさには心打たれますね。

 同じ緑と言っても草木の種類によって色合いは異なります。様々な趣の緑が青空を背に一つになって輝いています。月並みな表現でしか表せないですが、あふれる生命の力、神の創造の

                                              みわざのすばらしさに感嘆する今日こ

                                              の頃です。

       ライラック

 春を迎え、木の芽もいっせいに吹き出してきました。家魔の前の歩道に置かせてもらっているライラックも新芽を伸ばし、薄紫色の花芽をたくさんついて、日に日にふくらんできています。

 先日のこと、水やりをしていると、ご高齢のおばあさんが立ち止まり、こちらの顔を見てにっこりとごあいさつしてくれました。思い出しました。ライラックのおばあさんです。去年も声をかけてくれたのです。たしか北海道のご出身で、ライラックがお懐かしいようです。冷涼な気候がこの木には向いているのです。小生の出身地である長野でもよく目にすることができ

ます。しかし、横浜ではあまり目にすること

がありません。そんなわけで、とくに気にかけ

てくださるようです。「花が開くのを楽しみに

していますよ。」と言ってくださいました。

     心ある人たち

最近テレビを通して励ましを与えてくださる人たちのことをしることができました。

 日本の伝統工芸を学ぶため来日した外国の人に、真実を込めて教えるご夫婦、夫妻と9人の子供さんたちで、温かい家族のきずなを力としてサーカス興行で全国を巡回しているご家族、3・11の震災でご自分の病院もだめになったのにその地にとどまり、診療所に勤務しつつ人々に寄り添い、医療を続け、地域の支えとなっているお医者さんなどなど。

                                                心いたむことのみ多い昨今ですが、

                                               どっこい、このような人々がいて、この

                                               世の中がささえられているのですね。

         キジバト

 このあたり(横浜)のキジバトは人なりしていて警戒心があまりありません。しかし実は筆者の郷里ではこれほど用心深い鳥はいません。遠くでも人影を見るとたちまち去ってしまいます。

 先日、朝自然公園を散歩していました。林の中の小道を一人歩いていました。あるところに来るとキジバトと出会いました。筆者がゆっくり歩いていくと、2メートルくらい前をハトもちょこちょこ歩いていきます。横にそれることもなく、道に沿って進むのです。やがて、筆者が、見つけた道端のチョウをカメラで撮ろうとして立ち止まると、ハトも立ち止まり、そのあたり

を何やらつついています。自分もハトも、同じ時間を

共有しているとの実感がわいて、なんともまったりと

した気分になったことです。

   いつくしみ深き友イエス

 「いつくしみ深き友なるイエス」といえば知らない人のない讃美歌です。大西洋の向こうからやって来る婚約者を待っていた青年に届いた知らせは、婚約者の死でした。あまりののできごとに茫然自失した青年は、やがて神に祈り始めました。混乱し、波立っていたかれの心でしたが、やがて祈りを始めた時、不思議なことにキリストから来る平安を経験したのです。すべてを知りたもうキリストに委ねる気持ちが心を満たし、大波は静まったのです。その讃美歌は、こうして生まれたと言われます。

                                               信仰とは単なる知識、教理、哲学で

                                              はありません。それは今も生きておられ

                                              るキリストとの絶えざる出会いです。そ

                                              れはキリストに呼び掛ける祈りから生ま

                                              れるものです。

          幼い命

 父親によって尊い、幼い命が奪われるといいう事案がまた報道されています。犠牲になったお子さんの気持ちを思うと胸が締め付けられる思いです。

 子どもにとって唯一この世で頼れるはずの親から裏切りにひとしい扱いを受け、突き放されたれ、どこに居場所をうることができましょう。けれども、現実にこのような状況がそこかしこに生まれているということを忘れることはできません。ただただそのような事情のもとにある子供さんたちが、安心できる場所を一日も早く見いだすことができますようにと祈るのみです。

 

 

      平和主義の危機

 隣国との間で妙な駆け引きが続いています。もともと、緊張の発端は両国首脳の政治的思惑と思われます。どちらも支持率の低迷に危機感を抱いて、たまたま生起した軍事案件を政治問題化した形跡があります。

 隣国の事情はともかく、平和主義の憲法を掲げるわが国の首班が軍事的緊張をもてあそぶことはあってはならないことでしょう。しかし、憲法違反の疑いのある軍事法制を、一内閣の閣議決定で決めてしまう政権です。短絡的に危機感を拡大し、大衆の支持を拡大しようとする思惑もなしとはしないでしょう。危険なかけです。

 軍事的威嚇によってではなく、忍耐強い努力によって平和を構築する決意を明らかにしている憲法の平和主義がないがしろにされていこうとしている時、この平和主義を守ることを国民の不断の努力に訴える憲法の呼びかけに、一人一人が耳を傾けなければいけないと思わされます。

 

       紅(黄)葉

 ここ数週間、樹々の紅(黄)葉を楽しませてもらっています。いつまでも気温が高い状態が続いていたので、ことしはどうかとちょっと心配していましたが、なかなかどうしてすばらしい紅(黄)葉を楽しませてくれています。気候の加減で例年より遅くまで続いているとの報道です。秋の前半は日差しもなくぐずついていたので心配していましたが、青空を背景に晩秋の陽に輝く黄色や赤の木々の葉を眺めて癒されています。このような美しい自然界が続くように祈らずにはおれません。

        死に向かう存在

 先日、たまたま見ていたテレビ番組で、ある学者のかたが「人間の遺伝子は、人間が120歳になったら死ぬようにプログラムされている。それは種としての人類が存続するためなのだ」と発言しておられました。その視点にはっとさせられました。納得です。

 スイスの精神医学者でキリスト者であったポール・トゥルニエが筆者が以前読んだその著作の中で「人間は病むから死ぬのではない。死にゆく存在だから病むのだ」と言っていたのを思い起こし、符合するものを感じました。

                                            自分の死への覚悟と、心の備えのたいせ

                                           つさを改めて思わされます。

 

        「愛」の王国

 今日、多くの国の指導者が自国本位の政治を追い求めています。自国の繁栄、自国の安泰しか頭にないもののようです。

 たしかに繁栄も安泰も国民から託された課題です。しかし、一国の指導者は、国の代表として自国のことのみならず、世界の大切な課題も委ねられていることを忘れてはならないでしょう。それは、自国はもとより世界の幸いと安定です。それなくして自国のみの安泰を得ることはあり得ません。様々な事情で困窮する国々やその国民たちのことを忘れてはならないはずです。

 「愛」を忘れた世界は、やがて崩壊へと向かいます。

指導者たちも、彼らを選んだ私たちも、自国の繁栄

とともに「愛」の王国を築いてゆかねばなりません。

 

     宇宙の不思議

中国の物理学者、方励之(ほう・れいし)博士の著「宇宙のはじまり」(原題Creation of Universe=講談社ブルーバックス)を最近読みました。数式を用いつつ今日の宇宙物理学のテーマを解説し、最後に宇宙のはじまりを解明しようとする今日の取り組みについて解説しています。

 今日の認識では、宇宙には始まりがあったとされます。そして、その始まりは非存在から存在が発生したと言われます。その物理的解明は、近年急速に発達した量子論を手掛かりに進められており、故ホーキング博士のグループを中心に取り組まれてきていることが紹介されています。もっともそれはけっして簡単なみちのりではないようです。

 宇宙の始原の解明については、別の解明があることを著者は紹介しています。「人間原理」といわれる方法で、人間という存在がこの宇宙の中にあるという事実から宇宙の成り立ちを解明しようとします。地球という惑星に人間という生物があり、生命活動をし、認識能力をもち、宇宙を観測し、法則を発見している、現宇宙はその事実を成立させるような仕方で成り立っているというのです。物理的に言えば宇宙を成り立たせている色々な定数がこの人間の存在を可能とさせているとします。光速度、プランク定数、重力定数、電荷、電子質量、陽子質量、弱い相互作用・強い相互作用定数などが存在し、万物のスケール(原子の大きさ、原子の密度、原子核の大きさ、原子核の密度、イオン化エネルギー、分子間相互作用のエネルギー)はこれら物理定数の組み合わせで組成されているというのです。これらがあって知的生命体としての人間がここに存在可能となっているとされます(上掲書p274以下)。

 いずれにせよ、今日の宇宙物理学の最前線はきわめて興味深いことになっていると感じます。

 

 

          民の良心

 政権第一党の総裁選挙が行われました。選挙に向けては、主流派の推す現職総裁陣営によるなりふりかまわない運動が行われ、気持ちの良いものではありませんでした。一方、対立候補の方は、不利が伝えられる中、所信を訴え、地道な運動を進めておられました。

 超圧勝を目指した主流派に対し、非主流派候補は開票の結果、大方の予想を越える善戦でした。この結果を見て、現政権が不正に居座り、逸脱をかばい合う風潮に心を痛めておりましたが、少なからぬ国民(党員)の良心の声、良識の声を聞くことができた思いでした。

          風の威力

 先日の台風21号の列島通過の際の、風による被害には驚きました。関空のこともさることながらねあちらこちらで車が吹き寄せられたり、横転したことが報じられていました。家屋、工場の被害等も相当ありました。

 これまでも台風や突風による被害は数多くあったのですが、今回は次元の異なる被害状況だと感じました。昨今の地球環境の激変の一環と言えると思います。異常高温、豪雨被害もそうですが、これからは風の脅威についても腹を決めて備えねばならないでしょう。

 

 

 

 

         秋に向かって

 日中の暑さは相変わらずですが、朝夕はさすがにしのぎやすくなってきたように思います。湿度の低い日は、とてもさわやかにに感じられます。

 いつもの散歩道を歩いていると、大小さまざまなチョウたちがせっせと飛び回っているのに気づきます。花から花へとミツを吸いながら飛ぶもの、葉や花にとまることなく、やたらせわしく飛び回るものなどいろいろです。往く夏は彼ら取って大事な時期なのでしょう。

 秋のおとずれが楽しみな季節となりました。

 

    伝道献身者よ起これ

先週は神学生二人が夏期伝道で来られ、三日間奉仕をされました。福音宣教に尊い人生を献げられた方々があることは本当に尊いことであることを改めて感じました。

 日本宣教の現状は厳しいものがあります。戦後の伝道を担ってこられた牧師たちが引退期を迎えていますが、後を受け継ぐ伝道者が不足しているのです。伝道献身者がいない、この現実は教会の力、宣教意欲の低下でしょうか。心がふるえます。

 わたしたち、教会の主、宣教の主の御前に

ひれ伏し、聖霊の大いなる注ぎを祈り求めたいと思います。教会の宣教への篤き思いが掻き立てられますように。喜んで宣教のために人生を差し出す友が起こされますように。

        自己本位の人々

 人ごみの中で、他の人が目に入っていないかのようにわが道を進む人を時々見かけます。他の人が譲って当たり前と心得ているのでしょう。こんな人を見かけるとあまりいい気持ちはしません。けれども、逆に考えさせられるのです。人ごみの中でも自分がスムーズに進めるのは、他の人々が気を配ってくれている(お互いさまではありますが)からじゃないかと。傍若無人にふるまう人に出会った時も、むきになるのでなく、謙虚な平常心を保つことが大切でないかと。そうでないと、意地になる自分も相手とあまり変わらないということになってしまうだろうから。

                  カルヴァンの生涯

 16世紀の宗教改革者、ジャン・カルヴァンの小伝を読みました。青少年向けに書かれたものですが、簡潔で読みやすく、要点をとらえた伝記で、好感をもつとともに、その生涯について多く教えられました。

 当時、ローマ教会の一大勢力であったフランスの貧しい家の出で、苦労して勉学し、ルターに傾倒する友人の感化でプロテスタント信仰へと導かれました。もともと学究肌で、著作によって頭角を現しますが牧師にする意思はなかったようです。しかし、不思議な摂理の中で教会に奉仕する者となりました。

 ローマ教会からプロテスタントに移ったばかりのスイス・ジュネーブ教会を、過酷な試練と混乱の中で改革派教会として立ち上げていきました。徹底的に聖書に聴き従う歩みの中で、神のみを畏れ、人の顔を恐れず指導を続けました。元来虚弱な肉体にもかかわらず、身を捨てて改革に従事し、50代の若さでその人生を閉じました。神の栄光のみを追求したカルヴァンの遺志により、墓も残されていないということを知りました。

 筆者の属する信仰系譜と流れを異にしてはいますが、その生きざまに心を打たれるとともに、改革派教会の性格の一端を垣間見させていただきました。

 

命の継承

        命の継承

 数年前にグッピーのペアを買って、空いていた少し大きめの水槽に入れて飼い始めました。多産系だけに、たちまち増えて、一時は50匹近くにまでなりました。ところが、この夏は暑さが厳しかったためか、いつの間にか数が減り、秋口には15匹ほどになってしまいました。寂しく思っていたところ、秋の深まりと共に次々と稚魚が生まれ、大きさの違いはあるものの30匹くらいまで回復してきました。

 同じ一つの水槽の中ですが、命が受け継がれていく様には心打たれます。

 ちなみに、ひとなつこいかわいい魚たちです。

 

 

季節外れの花

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   玄関先においてあるバラの枝先に薄いオレンジ色の花が一つ咲きました。これまで、そのバラは初夏に咲くのが常でした。今回初夏に続いて、初めて秋に咲きました。それから、建物横の日当たりの悪いスペースに植わっているヤマアジサイに、今になってつぼみがついています。今年は初夏にまったく花がつきませんでした。初めてのことでした。そういえば例年もうとっくに実がついているはずのオリーブには花も実もつきませんでした。植物たちが気候の異変を感じているのでしょうか。

 ともあれ、季節外れに咲いた花たちを愛でております。               2019.10.6            

震われざる御国

Deep wisdom of God

       Genesis 45:1-28

Joseph, the son of Jacob, was sold over to the caravan for Egypt by his own brothers who hated him because of his arrogance, for their father favored him more than other brothers. 

 In Egypt, Joseph was sold slave in the house of high official of Pharaoh,there he worked diligently

and won the trust of his master. Later, however, he was put in jail because of the false charge of his master's wife about which he was innocent. He must have stay there for some years. O, how dark were the days there ! But those days taught him two important lessons. 1. He had been too arrogant in his family of which he was unaware. He now knew he must be humble. 2.In spite of his sufferings, The Lord had special design for him and his family. 

 One day Pharaoh had a bad dream. He was so anxious about it and tried to know the meaning of it by calling all the wise people in the country. But no one could tell the meaning of the dream. Then one of Pharaoh's officers who once had been put to jail and been helped to know the meaning of his dream by Joseph reminded him and introduced him to Pharaoh. He at once was called to the court. When Pharaoh told his dream to him, he could tell the meaning of it because the Lord helped him. The dream meant that there would be years of rich harvest and after these years would come those of famine. Pharaoh got so moved at his answer that he made Joseph the highest officer in his court. He stored much of food in time of rich harvest. And when the famine years came, people of Egypt and people of other countries came to Egypt's storehouses to buy the grains. The family, brothers of Joseph, also came to Egypt to buy food. 

 Meeting his brothers, Joseph could not bear moving to tears. He said "I am your brother, Joseph, whom you sold into Egypt. And now do not be distressed, or angry with yourselves, because you sold me here; for God sent me before you to preserve life. For the famine has been in the land these two years; and there are yet five years in which there will be neither ploughing nor harvest. And God sent me before you to preserve for you a remnant on earth, and to keep alive for you many survivors, So it was not you who sent me here, but God;"

 The Lord forgave the faults of Joseph's youth and it made him meek to his brothers, forgiving what they had done to him(Ephesians 4:31-32),made him able to discern the deep design of the Lord. 

 "O the depth of the riches and wisdom and knowledge of God! How unsearchable are his judgment and how inscrutable his ways!  "(Romans 11:33)                                                                   Dec. 2  2018

「仕える者たれ」

いま、世の中を見まわす時、権力をふりかざし、自分の主義をなりふりかまわず実現しようとする指導者たちが目につきます。上に立つ者、そのくらいの気概が必要と信じているのでしょうか。「謙虚」とは程遠い姿勢です。

 イエス・キリストは、「上に立つ者は誰よりも謙虚に仕える者たれ」と教えています。謙虚は「弱さ」とは違うと思います。権力を持つ者は、歴史に対して、民の声に対して、おのれの弱さに対して、謙虚であることが求められます。力を過信し、謙虚であることをおろそかにする権力者は、人の世にわざわいをもたらすことになりましょう。

危機感と平常心と

今年の夏の暑さは異常でした。専門家も「災害」と呼ぶべき状況であったと言っています。これは、日本だけでなく、世界各地でも同様であったようです。この異常気温は、未曽有の大水害を各地に起こし、また大規模火災も引き起こしています。

 この異常さに、学者たちも気温の高温化に関する警告を発しています。このまま気温上昇が進んで行くと、弊害は徐々にではなく、階段状に現れて来、地球の生命環境が激変する可能性が高いと言います。決していい加減な話ではないでしょう。

 さて、このように、ともすると不安にかられる民心を見透かしたかのように、キワモノの預言者も現れるものです。自然界の異変、壊滅的大地震や火山の爆発などを期限付きで予告し、人々を惑わす本が出てきます。ひともうけしようということでしょうか。なかなか難しい時期です。

 不安の時代には二つの心がけが大切だと思います。ひとつは、当面の危機を謙虚に受け止める冷静さ。もうひとつは、いたずらに舞い上がらない平常心。

 厳しい現実を受け止めたくないというのが一般の心理でしょう。「温暖化」が語られると必ず、これは人為的なものではなく、自然界の変動の一環にすぎないという気やすめを言う人がいます。本気でそう思っているかもしれませんし、経済発展に支障がある、不都合な真実を覆い隠す政治的意図を背景にもっている可能性もあるでしょう。

ともあれ、生命の安全をおびやかすような、世界同時多発の異常高温とそれに伴う諸災害を軽く見てはいけないでしょう。温室効果ガスを多量に排出してきた人間の生産活動のありようを、検証し、対応すべきでしょう。

 しかし一方、危機感を募らせるあまり、すべてに否定的、悲観的になりすぎては、健全な日常生活を見失い、右往左往することになってしまう危険もあります。平常心に立って、冷静に状況を受け止め、日常のわざに励みつづたくあります。

 「危機感」と「平常心」この二つが今求めらているのではないでしょうか。

 

 

 

存在を支えるもの

とんぼ返りをやりすぎてめまいが止まらなくなり、このまま死んだらどうなるのかとおののいて眠れなくなった少年が、考えあぐねた末に、自分が死んでも宇宙は残るから大丈夫だと思いついて、やっと眠りについたというご当人の打ち明け話を読みました。この方はそんな体験から宇宙の成り立ちについて研究するようになり、米国留学を経て、今、宇宙生成と深いかかわりのある重力物理学の研究に取り組んでおられるとのこと。

 ユダヤ教の思想家、マルチン・ブーバーの若き日の思い出を読んだことがあります。彼は、広大無辺の宇宙に一人存在する自分を意識するとき、たまらない不安におそわれたといいます。やがて彼は、宇宙の全体が自分の前に全体としてあらわれることはないのだ、ということに気づき、そのことを考えることで不安を克服したと吐露していました。

 どちらも、ある人たちが経験するいわゆる存在不安を、それぞれの経験知を心に強く意識することで克服したのだといえましょう。自分という存在をささえる支点というものがあるのですね。

地球環境の大変動

 前回に続きこの話題です。連日ありえない猛暑の続くわが国です(もっとも日本だけではありませんが)。

だれもが「異常」といいますが、あるいはこれが異常ては言えない、これが普通の時代にはいつたと考えなければならないかもしれません。酷暑、極寒、豪雨、豪雪、強風、海の生き物の異変等々、想定を超えたことがこれから多発することでしょう。世界の指導者らが事柄の深刻さに真に目覚め、一致して対応する姿勢を持たない限りおそらく、ますます状況は悪化することでしょう。残念な現実は前回書かせていただいた通りです。

 ともあれ、この現実に目をとめ、心を定めて、この時代

を生きてゆくことが求められております。いたずらに恐れ

るばかりではいけないでしょう。

 

指導者の怠慢?

      

 このところ、日本だけではなく、世界的な規模で今までなかったような大水害が発生しています。地球環境の温暖化と明らかに関係しています。

 ある人々は、地球はこれまでも寒冷化、温暖化をくり返してきたと言います。たしかにそうでしょう。しかし、昨今の温暖化の進度は、自然現象などで説明できる程度ではないと言われます。しかし、多くの国は当面の経済発展を最優先とし、将来世代への責任に直面しようとはしません。その「つけ」をもうすでにわたしたち人類は払わなければならない状況を迎えています。次の世代のために、いやすでに始まっている破局的な環境崩壊をとどめるために、英知を結集しなければならない時が来ているのではないでしょうか。その課題を後回しにして、目先の権益確保に終始している指導者たちのみを責めて済む問題ではないでしょう。そのような緩慢な指導者を立たせているわれわれ市民にも責任はありそうです。

 

 

生活があるので・・

 かつて教育の現場で「日の丸」「君が代」高揚キャンペーンが繰り広げられた時期がありました(ある意味今も続いていますが)。親しかったある学校教師の方とそのことについてしばらく話していました。こうした動きの背景にある国家主義的な空気のあやうさについて言葉を交わしていたのですが、先生はこうした問題意識自体に反対はされませんでしたが、最後にご自分の事情をお考えになったのだと思われる発言をされました。「自分は公務員です。生活があるので・・・」。

 筆者も先生の立場はわかります。そのような発言を責めることはできないでしょう。けれども、「生活があるので」との言葉はその後もおりあるごとに思い出されるのです。

 国を代表する大臣から、役人、企業社員、マスコミ関係者にいたるまで、今日「生活があるので・・・」として自分の身の安全、安泰を最優先し、語るべきことを語らない、口を閉ざす風潮が蔓延していると感じます。このような沈黙が、取り返しのつかない方向へ社会を押し流すことを知ってか知らでか、ひたすら流れを眺め、流れに乗ることのみを願っているようです。

 歴史を学ばない、歴史を教えない風土がこのような状況をもたらしているのでしょうか。明日の日本が案ぜられます。

澄んだ光

しばらく所用で日課の散歩ができませんでした。しかし先週はやっとその機会が持てました。

 その週ははじめ曇りが記の日々でしたが、後半久しぶりのさわやかな青空が広がりました。空気が澄み、光も鋭さを感じさせるほどでした。こんな日は、いつもの風景もまったく違った輝きをまといます。木や草の緑が、いつもとは違う色合いを見せてくれます。

 澄んだ光に照らされると同じ木々も別物となります。人生も、神の恵みの光に照らされると、まったく異なった輝きで輝きだし

                                             ます。

席をゆずる

 朝の通勤時間の電車に乗ると、あいかわらずすごい混雑で人々のいらだちも尋常ではありません。乗客はおしあいへしあいののしりあっています。

 けれども一方で、年配の方や体の不自由な方に席を譲る風景もよく見かけます。以前は席を譲るにも何かぎくしゃくした感じが多かったように思いますが、最近はごく自然に譲る方が多くなっているように思いますが筆者の思い違いでしょうか。

 ともあれそれは幸いなことでうれしく思います。

打算と真実

戦後の日本(そして世界)において、「真実」がいまほど軽視された状態であることはなかったのではないかと思います。

 目の前の利益、都合のよさが臆面もなく優先され、大衆はそれで門属するといった傾向が顕著だと思います。

 歴史は幾多の試練を経て、人の尊厳、平等、法の支配、市民の権利などの価値を明らかにしてきました。こうした価値の尊厳、それらのものに対する畏怖を忘れるとき、償いきれない失敗を犯すことになると知るべきでしょう。

花屋さん

所用で市内某所、閑静な住宅地を歩いていると、割合間口の広い、古い花屋さんがありました。店先にはいろいろな種類の花や、観葉植物の小鉢がならんでいました。

 街中の花屋さんはえてして見栄えの良い、売れやすいちょっと派手目の花を並べることが多いもので、根っから草花好きの筆者としては少々物足りないことが多いのですが、そのお店には草花好きにはとても興味をそそられる素晴らしい鉢が置かれているのでした。

 こういうお店を見るとすっかり楽しくなります。折から野菜の苗が並んでいまし

                                              たので、いくつか求めて帰途についた

                                              のでした。

神の正義を想う

 野望のためには不正を恥じない統治者、自国の利益ひいては自分の権勢のためには悪を働いて気に留めない指導者が内外に数多く見られる昨今です。権力のみを信じ、神も正義も恐れぬ人々です。心が痛みます。

 しかし、旧約聖書に登場する古代の預言者たちも、不正と腐敗のうずまく現世にあって、権力者のおごり、民衆の無頓着にもかかわらず、神こそ変わらぬ正義をもってこの世を治める統治者であることを民衆に訴え続けました。確かに歴史を振り返ると、時間は要しますが、神は確かに正義をもって諸国を統治しておられると思わざるを得ません。この神のご支配を信じ、進むものであ

りたく願うものです。

 

ライラック

先日の雨とこのところの暖かさで、草木の新芽がいっきに出てきましたね。前の歩道に置かせてもらっている鉢植えのライラック(リラ)も、急速にその芽をふくらませてきました。この木は去年、芽のふくらむのが遅く、気をもんだものでした。それが今年は他の鉢植えよりも順調な発育を見せています。

 近づいてよく見ると小枝の先にたくさんの花芽が見えます。これが昨シーズンは芽吹きも遅く花芽もひとつ、ふたつであったことを思うと大違いです。この一年で根をしっかり張ることができのかなと想像しています。薄紫の上品な花をみせてくれるのも間

                                            近でしょう。楽しみにしています。

赤ちゃんの成長

時々都内での所用の帰り道、娘の所に寄り孫の顔を見ます。一歳になったところですが、その成長の速さには驚かされます。身体も大きくなりますが、運動や知恵の発達はめざましいものがありますね。会うたびにどんどん変化しています。命のすごさをいまさらのように感じさせられます。神の愛の摂理があるのでしょう。

 会うたびに泣いていた人見知りの時期も過ぎたらしく、顔を合わせるとニコっと笑顔を見せてくれます。好奇心旺盛で、たえず何かを吸収している感じが伝わってきます。こうした子らがこれから過ごす時代はなかなか大変な時代だと思われますが、健やかに成長し、どんな困難も乗り越えて、まっすぐに生きてほしいと願わずにはおれません。

アスリートの健闘に感動

 平昌五輪が終わりました。とりまく政治的状況はともかく、選手たちの競技はすばらしいとあにためて感じました。

 メディアでは、競技の様子だけでなく、参加したアスリートたちが一般の知らないところでさまざまな困難と取り組み、苦労を重ねつつ鍛錬を積み上げてきたことをレポートしていて、それを見るわれわれが心打たれることもしばしばでした。4年間にわたる準備をし、本番に臨むということがどれほど忍耐と努力を要することなのでしょうか。

 聖書を見ると、キリストの恵みに捕らえられて歩む信仰生活をマラソンや、ボクシングにたとえて、キリスト者が招かれたコースを神の前に走り抜こうと語りかけていますが、本当にそうだなと思わされます。キリストに捕らえられた者として、あらゆる困難に堪え、自分に備えられた十字架を進んで担い、忍耐と希望をもって神に向かって歩み続けたく思います。

「神の見えざる手」

今回の米国発の世界同時株安に関連して、あるエコノミストが、金融緩和など人為的対応で何とか作り上げられた好景気だが、『神の見えざる手」が働く時が来ているのかも知れない』と。18世紀の経済学者アダム・スミスの言葉を引用していました。

 以前読んだその著「諸国民の富」(または「国富論」)の別の一節を思い出しました。その中でこうも言っていました。新たな経済政策が打ち出される時は気をつけよ。為政者の魂胆が隠されているから、と。

 これらの言葉を読むとき、この人は単なる経済学者ではない。まことに神を畏れる敬虔な人格であるということを強く感じさせられます。そして、このような豊かな見識こそ、あるゆる学問、知見の背後になければならないものだとつくづく思わされます。

振るわれないもの

 地球の地殻の大変動期に入っていると言われます。世界の各地で火山の噴火や大地震が多発しています。先週も草津白根山で予期せぬ火山の爆発がありました。こうした状況を見ると、首都直下型の大地震、東海、南海大地震の発生も予想されます。心したいと思わされます。

 大災害のことを思う時、戦後まもなく長野県飯田市で発生した大火で実家を失った経験を持つ、筆者の中学校時代の恩師の言葉を思い出します。勉学で郷里を離れていた彼は、大火の知らせに飯田に急遽もどりました。おり立った町は、焼け野原となり先生のおうちは灰となっていました。「そのことがあって以来、『もの』への執着がなくなりました」と話されたその言葉を忘れることはできません。

 災害への備えと共に、避けられないその災害の中で直面するであろう「喪失」のことも心に留めつつ、いかなる物事の中にも失われないもの、振るわれないものとはなにかということにも思いをはせつつ生かされたいと思うことです。

 

礼拝の喜び

かつて神学生として奉仕で来会されたことのある、ある方が、お便りの中で私どもの教会の印象を「礼拝の喜びにあずかる教会」と書いてくださいました。筆者としては端的にうれしく思い、感謝したことです。

 私どもの教会はイベントや、活動の多くはない教会です。文字通り礼拝中心の教会と言えると思います。目指しているのは、み言葉に聴き生活の場で応答することで、少し大げさに言えば、そこに賭けていると言えると思いますしそう願っています。

 かくいう牧師である筆者自身、集う方々と礼拝につらなり、み言葉を聞きともに賛美することが最高の喜

                                      びです。

正気を失う世界

第二次世界大戦の悪夢を体験した世界、半世紀にわたって戦争の悲惨を踏まえた堅実な方向をともかくも目指してきていました。しかし昨今、信じられないほどの方向転換を見せつつあります。

 指導的な諸大国は、あからさまに自国の利益を追求して恥じません。積み重ねられてきた平和への歩みをいとも簡単に投げ捨てています。悪夢の再来予感させられるようなこのごろです。しかしわたしたちは主のみ心を覚え、目を覚まして進んで行きましょう。

真実

 今年は国の最高権力者の思惑がからんだといわれる二つの事業のことで、その真偽をめぐる混乱の内に一年が過ぎてきました。決着がつかぬまま幕引きがされようとしています。ひたすら逃げ切りを図ろうとする権力者の姿を、社会は、わけても若い人々はどう見ているのでしょうか。自らの生きざまが真実であるかどうかではなく、生き残れば勝ちと考える価値観が、どれだけその社会をおとしめることでしょう。

神の国とこの世の国

 最近、とみに世界の国々の指導者たちが、露骨に自国の利益のみを追求する有様が目立つようになっていると思います。そんな現状の中で、逆にイエス・キリストがもたらされた「神の国」がいかなるものか、鮮やかに感じられます。~愛、正義、平和、謙遜、廉潔~まさにこの世の権力が追及するところに逆行するもののようです。イエス・キリストは身をもって神の国を生き、十字架の死と復活の勝利によってそのいしずえを据えられたことです。

驚くべきよろこび

昨今「~の日」というのが多くなりました。業者さんの販売戦略で、年がら年中、何かのタイトルが巷に溢れます。その元祖の一つがクリスマスかも知れません。もうそれは「しにせ」の感があります。

 この季節、教会は時流に乗って、効果的に伝道をということになるのですが、安易にムードに流されないようにしたものです。クリスマスはまことに、キリストがわたしたち一人ひとりを救うために世に来られた、驚くべき、厳粛な愛の出来事と言えましょう。

彩りの秋

 このところ急に冷え込んできました。周りの草木も冬への備えを急いでいるようです。この時期、木々の葉が美しく色づいて来ています。道端の草花も、菊の花をはじめ、色鮮やかに咲いています。紅、黄、橙、緑、朱、紫などなど宝石箱か、錦かといったところです。

 活動の季節の終わりにこのように輝く草木のすばらしさ。人生を四季にたとえれば、秋ともいうべき老年期こそ、実はいちばん実り豊かであり、最も美しく装われる時なのでしょう。

指導者の品格

総理大臣が、外国の賓客の前で、政治は機を読むことだとのうんちくを吐いたとの報道がありました。なるほどと思います。

 大衆に取り入り、不利ことは臆面もなくひたすら隠し、折あらば手柄を喧伝し、中央銀行を用いて株価を演出する。マスコミに脅しをかけ、公務員人事を握って役人を支配する。一方で「法の支配」を説きつつ、自らは憲法を侵して恥じない。選挙に勝ち、してやったりと自信を深めているのでしょう。

 しかし、残念ながら、今日までの言動、その思想、政治家としてのふるまいを見るとき、指導者としての品格をいちじるしく欠いていると申し上げざるを得ません。人間の尊厳、歴史に学ぶ謙虚さ、自分の言動への誠実、真理への畏敬、民主主義の本義の尊重、そのどれも持ち合わせているとは思えません。ご本人は打って出た選挙の勝利で、巻き返しの風を捉えたとお思いだと思いますが、遅かれ早かれその実を刈り取ることになるでしょう。人類の歴史がそれを示しています。

闇の中も

 この夏に続いて、10月も記録的な悪天候の日々であったと報じられています。毎日毎日、目を覚ますと雨か曇り空。いい加減に気持ちが滅入ってきます。サポ好き人間にとっては特にこたえます。

 しかし、こんな時こそ忍耐と一貫性!が試されるわけで、負けているわけにはいかないでしょう。旧約聖書に出てくる、イスラエルの民のバビロン捕囚期の預言者はは歌いました。「お前たちのうちにいるであろうか・・闇の中を歩くときも・・主の御名に信頼する者が」(イザヤ書50・10)。少しのことで気分が変わりやすいのがわれわれ人間だと思いますが、悪天候続きの日々も、ぶれずに前進したいものです。厚い雲の上には、かわらず太陽が輝いていることを思いつつ。

真実の力

 奇想天外の展開を見た今回の総選挙でした。選挙当事者の人達も予想しなかったでしょう。それが何を意味するのかはこれから明らかになってくるでしょう。

 ただ、権力の座をめぐってのかけひきから生まれる、聞こえはよいが不真実を思わせる言葉や、誠実とはいいがたい動きの嵐の中で、かたくななまでに真実を貫こうとするひとにぎりの政治家たちがいたことが、一服の清涼剤、いや、ひとすじのたしかな望みを多くの国民に与えたと思います。

 

歴史を導くもの

 国会の解散が為政者によってなされてから今日まで、国民の目にはあまりにもめまぐるしい政治家たちの動きが日々マスコミによって伝えられています。それを見ながら、とかく権力争いのみにくさに、この国はだいじょうぶだろうかと思わされることです。

 このような喧騒の中で、歴史を正視しようとしない国家主義的な発言や動きが見え隠れしていることに心を痛めます。こうした空気の中で、民心はどこに向かうのでしょうか。この意味で、このたびの選挙は、候補者もさることながら、わたしたち有権者が試されているのだと思います。

 なかなか明るい展望をもつことができませんが、国家百年を見据えつつ、歴史の主である神のご支配を仰ぎつつ、粘り強く進みたいものです。

夕焼け雲~湯澤牧師の随想

命の継承

        命の継承

 数年前にグッピーのペアを買って、空いていた少し大きめの水槽に入れて飼い始めました。多産系だけに、たちまち増えて、一時は50匹近くにまでなりました。ところが、この夏は暑さが厳しかったためか、いつの間にか数が減り、秋口には15匹ほどになってしまいました。寂しく思っていたところ、秋の深まりと共に次々と稚魚が生まれ、大きさの違いはあるものの30匹くらいまで回復してきました。

 同じ一つの水槽の中ですが、命が受け継がれていく様には心打たれます。

 ちなみに、ひとなつこいかわいい魚たちです。

 

 

季節外れの花

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   玄関先においてあるバラの枝先に薄いオレンジ色の花が一つ咲きました。これまで、そのバラは初夏に咲くのが常でした。今回初夏に続いて、初めて秋に咲きました。それから、建物横の日当たりの悪いスペースに植わっているヤマアジサイに、今になってつぼみがついています。今年は初夏にまったく花がつきませんでした。初めてのことでした。そういえば例年もうとっくに実がついているはずのオリーブには花も実もつきませんでした。植物たちが気候の異変を感じているのでしょうか。

 ともあれ、季節外れに咲いた花たちを愛でております。               2019.10.6            

震われざる御国

Deep wisdom of God

       Genesis 45:1-28

Joseph, the son of Jacob, was sold over to the caravan for Egypt by his own brothers who hated him because of his arrogance, for their father favored him more than other brothers. 

 In Egypt, Joseph was sold slave in the house of high official of Pharaoh,there he worked diligently

and won the trust of his master. Later, however, he was put in jail because of the false charge of his master's wife about which he was innocent. He must have stay there for some years. O, how dark were the days there ! But those days taught him two important lessons. 1. He had been too arrogant in his family of which he was unaware. He now knew he must be humble. 2.In spite of his sufferings, The Lord had special design for him and his family. 

 One day Pharaoh had a bad dream. He was so anxious about it and tried to know the meaning of it by calling all the wise people in the country. But no one could tell the meaning of the dream. Then one of Pharaoh's officers who once had been put to jail and been helped to know the meaning of his dream by Joseph reminded him and introduced him to Pharaoh. He at once was called to the court. When Pharaoh told his dream to him, he could tell the meaning of it because the Lord helped him. The dream meant that there would be years of rich harvest and after these years would come those of famine. Pharaoh got so moved at his answer that he made Joseph the highest officer in his court. He stored much of food in time of rich harvest. And when the famine years came, people of Egypt and people of other countries came to Egypt's storehouses to buy the grains. The family, brothers of Joseph, also came to Egypt to buy food. 

 Meeting his brothers, Joseph could not bear moving to tears. He said "I am your brother, Joseph, whom you sold into Egypt. And now do not be distressed, or angry with yourselves, because you sold me here; for God sent me before you to preserve life. For the famine has been in the land these two years; and there are yet five years in which there will be neither ploughing nor harvest. And God sent me before you to preserve for you a remnant on earth, and to keep alive for you many survivors, So it was not you who sent me here, but God;"

 The Lord forgave the faults of Joseph's youth and it made him meek to his brothers, forgiving what they had done to him(Ephesians 4:31-32),made him able to discern the deep design of the Lord. 

 "O the depth of the riches and wisdom and knowledge of God! How unsearchable are his judgment and how inscrutable his ways!  "(Romans 11:33)                                                                   Dec. 2  2018

「仕える者たれ」

いま、世の中を見まわす時、権力をふりかざし、自分の主義をなりふりかまわず実現しようとする指導者たちが目につきます。上に立つ者、そのくらいの気概が必要と信じているのでしょうか。「謙虚」とは程遠い姿勢です。

 イエス・キリストは、「上に立つ者は誰よりも謙虚に仕える者たれ」と教えています。謙虚は「弱さ」とは違うと思います。権力を持つ者は、歴史に対して、民の声に対して、おのれの弱さに対して、謙虚であることが求められます。力を過信し、謙虚であることをおろそかにする権力者は、人の世にわざわいをもたらすことになりましょう。

危機感と平常心と

今年の夏の暑さは異常でした。専門家も「災害」と呼ぶべき状況であったと言っています。これは、日本だけでなく、世界各地でも同様であったようです。この異常気温は、未曽有の大水害を各地に起こし、また大規模火災も引き起こしています。

 この異常さに、学者たちも気温の高温化に関する警告を発しています。このまま気温上昇が進んで行くと、弊害は徐々にではなく、階段状に現れて来、地球の生命環境が激変する可能性が高いと言います。決していい加減な話ではないでしょう。

 さて、このように、ともすると不安にかられる民心を見透かしたかのように、キワモノの預言者も現れるものです。自然界の異変、壊滅的大地震や火山の爆発などを期限付きで予告し、人々を惑わす本が出てきます。ひともうけしようということでしょうか。なかなか難しい時期です。

 不安の時代には二つの心がけが大切だと思います。ひとつは、当面の危機を謙虚に受け止める冷静さ。もうひとつは、いたずらに舞い上がらない平常心。

 厳しい現実を受け止めたくないというのが一般の心理でしょう。「温暖化」が語られると必ず、これは人為的なものではなく、自然界の変動の一環にすぎないという気やすめを言う人がいます。本気でそう思っているかもしれませんし、経済発展に支障がある、不都合な真実を覆い隠す政治的意図を背景にもっている可能性もあるでしょう。

ともあれ、生命の安全をおびやかすような、世界同時多発の異常高温とそれに伴う諸災害を軽く見てはいけないでしょう。温室効果ガスを多量に排出してきた人間の生産活動のありようを、検証し、対応すべきでしょう。

 しかし一方、危機感を募らせるあまり、すべてに否定的、悲観的になりすぎては、健全な日常生活を見失い、右往左往することになってしまう危険もあります。平常心に立って、冷静に状況を受け止め、日常のわざに励みつづたくあります。

 「危機感」と「平常心」この二つが今求めらているのではないでしょうか。

 

 

 

存在を支えるもの

とんぼ返りをやりすぎてめまいが止まらなくなり、このまま死んだらどうなるのかとおののいて眠れなくなった少年が、考えあぐねた末に、自分が死んでも宇宙は残るから大丈夫だと思いついて、やっと眠りについたというご当人の打ち明け話を読みました。この方はそんな体験から宇宙の成り立ちについて研究するようになり、米国留学を経て、今、宇宙生成と深いかかわりのある重力物理学の研究に取り組んでおられるとのこと。

 ユダヤ教の思想家、マルチン・ブーバーの若き日の思い出を読んだことがあります。彼は、広大無辺の宇宙に一人存在する自分を意識するとき、たまらない不安におそわれたといいます。やがて彼は、宇宙の全体が自分の前に全体としてあらわれることはないのだ、ということに気づき、そのことを考えることで不安を克服したと吐露していました。

 どちらも、ある人たちが経験するいわゆる存在不安を、それぞれの経験知を心に強く意識することで克服したのだといえましょう。自分という存在をささえる支点というものがあるのですね。

地球環境の大変動

 前回に続きこの話題です。連日ありえない猛暑の続くわが国です(もっとも日本だけではありませんが)。

だれもが「異常」といいますが、あるいはこれが異常ては言えない、これが普通の時代にはいつたと考えなければならないかもしれません。酷暑、極寒、豪雨、豪雪、強風、海の生き物の異変等々、想定を超えたことがこれから多発することでしょう。世界の指導者らが事柄の深刻さに真に目覚め、一致して対応する姿勢を持たない限りおそらく、ますます状況は悪化することでしょう。残念な現実は前回書かせていただいた通りです。

 ともあれ、この現実に目をとめ、心を定めて、この時代

を生きてゆくことが求められております。いたずらに恐れ

るばかりではいけないでしょう。

 

指導者の怠慢?

      

 このところ、日本だけではなく、世界的な規模で今までなかったような大水害が発生しています。地球環境の温暖化と明らかに関係しています。

 ある人々は、地球はこれまでも寒冷化、温暖化をくり返してきたと言います。たしかにそうでしょう。しかし、昨今の温暖化の進度は、自然現象などで説明できる程度ではないと言われます。しかし、多くの国は当面の経済発展を最優先とし、将来世代への責任に直面しようとはしません。その「つけ」をもうすでにわたしたち人類は払わなければならない状況を迎えています。次の世代のために、いやすでに始まっている破局的な環境崩壊をとどめるために、英知を結集しなければならない時が来ているのではないでしょうか。その課題を後回しにして、目先の権益確保に終始している指導者たちのみを責めて済む問題ではないでしょう。そのような緩慢な指導者を立たせているわれわれ市民にも責任はありそうです。

 

 

生活があるので・・

 かつて教育の現場で「日の丸」「君が代」高揚キャンペーンが繰り広げられた時期がありました(ある意味今も続いていますが)。親しかったある学校教師の方とそのことについてしばらく話していました。こうした動きの背景にある国家主義的な空気のあやうさについて言葉を交わしていたのですが、先生はこうした問題意識自体に反対はされませんでしたが、最後にご自分の事情をお考えになったのだと思われる発言をされました。「自分は公務員です。生活があるので・・・」。

 筆者も先生の立場はわかります。そのような発言を責めることはできないでしょう。けれども、「生活があるので」との言葉はその後もおりあるごとに思い出されるのです。

 国を代表する大臣から、役人、企業社員、マスコミ関係者にいたるまで、今日「生活があるので・・・」として自分の身の安全、安泰を最優先し、語るべきことを語らない、口を閉ざす風潮が蔓延していると感じます。このような沈黙が、取り返しのつかない方向へ社会を押し流すことを知ってか知らでか、ひたすら流れを眺め、流れに乗ることのみを願っているようです。

 歴史を学ばない、歴史を教えない風土がこのような状況をもたらしているのでしょうか。明日の日本が案ぜられます。

澄んだ光

しばらく所用で日課の散歩ができませんでした。しかし先週はやっとその機会が持てました。

 その週ははじめ曇りが記の日々でしたが、後半久しぶりのさわやかな青空が広がりました。空気が澄み、光も鋭さを感じさせるほどでした。こんな日は、いつもの風景もまったく違った輝きをまといます。木や草の緑が、いつもとは違う色合いを見せてくれます。

 澄んだ光に照らされると同じ木々も別物となります。人生も、神の恵みの光に照らされると、まったく異なった輝きで輝きだし

                                             ます。

席をゆずる

 朝の通勤時間の電車に乗ると、あいかわらずすごい混雑で人々のいらだちも尋常ではありません。乗客はおしあいへしあいののしりあっています。

 けれども一方で、年配の方や体の不自由な方に席を譲る風景もよく見かけます。以前は席を譲るにも何かぎくしゃくした感じが多かったように思いますが、最近はごく自然に譲る方が多くなっているように思いますが筆者の思い違いでしょうか。

 ともあれそれは幸いなことでうれしく思います。

打算と真実

戦後の日本(そして世界)において、「真実」がいまほど軽視された状態であることはなかったのではないかと思います。

 目の前の利益、都合のよさが臆面もなく優先され、大衆はそれで門属するといった傾向が顕著だと思います。

 歴史は幾多の試練を経て、人の尊厳、平等、法の支配、市民の権利などの価値を明らかにしてきました。こうした価値の尊厳、それらのものに対する畏怖を忘れるとき、償いきれない失敗を犯すことになると知るべきでしょう。

花屋さん

所用で市内某所、閑静な住宅地を歩いていると、割合間口の広い、古い花屋さんがありました。店先にはいろいろな種類の花や、観葉植物の小鉢がならんでいました。

 街中の花屋さんはえてして見栄えの良い、売れやすいちょっと派手目の花を並べることが多いもので、根っから草花好きの筆者としては少々物足りないことが多いのですが、そのお店には草花好きにはとても興味をそそられる素晴らしい鉢が置かれているのでした。

 こういうお店を見るとすっかり楽しくなります。折から野菜の苗が並んでいまし

                                              たので、いくつか求めて帰途についた

                                              のでした。

神の正義を想う

 野望のためには不正を恥じない統治者、自国の利益ひいては自分の権勢のためには悪を働いて気に留めない指導者が内外に数多く見られる昨今です。権力のみを信じ、神も正義も恐れぬ人々です。心が痛みます。

 しかし、旧約聖書に登場する古代の預言者たちも、不正と腐敗のうずまく現世にあって、権力者のおごり、民衆の無頓着にもかかわらず、神こそ変わらぬ正義をもってこの世を治める統治者であることを民衆に訴え続けました。確かに歴史を振り返ると、時間は要しますが、神は確かに正義をもって諸国を統治しておられると思わざるを得ません。この神のご支配を信じ、進むものであ

りたく願うものです。

 

ライラック

先日の雨とこのところの暖かさで、草木の新芽がいっきに出てきましたね。前の歩道に置かせてもらっている鉢植えのライラック(リラ)も、急速にその芽をふくらませてきました。この木は去年、芽のふくらむのが遅く、気をもんだものでした。それが今年は他の鉢植えよりも順調な発育を見せています。

 近づいてよく見ると小枝の先にたくさんの花芽が見えます。これが昨シーズンは芽吹きも遅く花芽もひとつ、ふたつであったことを思うと大違いです。この一年で根をしっかり張ることができのかなと想像しています。薄紫の上品な花をみせてくれるのも間

                                            近でしょう。楽しみにしています。

赤ちゃんの成長

時々都内での所用の帰り道、娘の所に寄り孫の顔を見ます。一歳になったところですが、その成長の速さには驚かされます。身体も大きくなりますが、運動や知恵の発達はめざましいものがありますね。会うたびにどんどん変化しています。命のすごさをいまさらのように感じさせられます。神の愛の摂理があるのでしょう。

 会うたびに泣いていた人見知りの時期も過ぎたらしく、顔を合わせるとニコっと笑顔を見せてくれます。好奇心旺盛で、たえず何かを吸収している感じが伝わってきます。こうした子らがこれから過ごす時代はなかなか大変な時代だと思われますが、健やかに成長し、どんな困難も乗り越えて、まっすぐに生きてほしいと願わずにはおれません。

アスリートの健闘に感動

 平昌五輪が終わりました。とりまく政治的状況はともかく、選手たちの競技はすばらしいとあにためて感じました。

 メディアでは、競技の様子だけでなく、参加したアスリートたちが一般の知らないところでさまざまな困難と取り組み、苦労を重ねつつ鍛錬を積み上げてきたことをレポートしていて、それを見るわれわれが心打たれることもしばしばでした。4年間にわたる準備をし、本番に臨むということがどれほど忍耐と努力を要することなのでしょうか。

 聖書を見ると、キリストの恵みに捕らえられて歩む信仰生活をマラソンや、ボクシングにたとえて、キリスト者が招かれたコースを神の前に走り抜こうと語りかけていますが、本当にそうだなと思わされます。キリストに捕らえられた者として、あらゆる困難に堪え、自分に備えられた十字架を進んで担い、忍耐と希望をもって神に向かって歩み続けたく思います。

「神の見えざる手」

今回の米国発の世界同時株安に関連して、あるエコノミストが、金融緩和など人為的対応で何とか作り上げられた好景気だが、『神の見えざる手」が働く時が来ているのかも知れない』と。18世紀の経済学者アダム・スミスの言葉を引用していました。

 以前読んだその著「諸国民の富」(または「国富論」)の別の一節を思い出しました。その中でこうも言っていました。新たな経済政策が打ち出される時は気をつけよ。為政者の魂胆が隠されているから、と。

 これらの言葉を読むとき、この人は単なる経済学者ではない。まことに神を畏れる敬虔な人格であるということを強く感じさせられます。そして、このような豊かな見識こそ、あるゆる学問、知見の背後になければならないものだとつくづく思わされます。

振るわれないもの

 地球の地殻の大変動期に入っていると言われます。世界の各地で火山の噴火や大地震が多発しています。先週も草津白根山で予期せぬ火山の爆発がありました。こうした状況を見ると、首都直下型の大地震、東海、南海大地震の発生も予想されます。心したいと思わされます。

 大災害のことを思う時、戦後まもなく長野県飯田市で発生した大火で実家を失った経験を持つ、筆者の中学校時代の恩師の言葉を思い出します。勉学で郷里を離れていた彼は、大火の知らせに飯田に急遽もどりました。おり立った町は、焼け野原となり先生のおうちは灰となっていました。「そのことがあって以来、『もの』への執着がなくなりました」と話されたその言葉を忘れることはできません。

 災害への備えと共に、避けられないその災害の中で直面するであろう「喪失」のことも心に留めつつ、いかなる物事の中にも失われないもの、振るわれないものとはなにかということにも思いをはせつつ生かされたいと思うことです。

 

礼拝の喜び

かつて神学生として奉仕で来会されたことのある、ある方が、お便りの中で私どもの教会の印象を「礼拝の喜びにあずかる教会」と書いてくださいました。筆者としては端的にうれしく思い、感謝したことです。

 私どもの教会はイベントや、活動の多くはない教会です。文字通り礼拝中心の教会と言えると思います。目指しているのは、み言葉に聴き生活の場で応答することで、少し大げさに言えば、そこに賭けていると言えると思いますしそう願っています。

 かくいう牧師である筆者自身、集う方々と礼拝につらなり、み言葉を聞きともに賛美することが最高の喜

                                      びです。

正気を失う世界

第二次世界大戦の悪夢を体験した世界、半世紀にわたって戦争の悲惨を踏まえた堅実な方向をともかくも目指してきていました。しかし昨今、信じられないほどの方向転換を見せつつあります。

 指導的な諸大国は、あからさまに自国の利益を追求して恥じません。積み重ねられてきた平和への歩みをいとも簡単に投げ捨てています。悪夢の再来予感させられるようなこのごろです。しかしわたしたちは主のみ心を覚え、目を覚まして進んで行きましょう。

真実

 今年は国の最高権力者の思惑がからんだといわれる二つの事業のことで、その真偽をめぐる混乱の内に一年が過ぎてきました。決着がつかぬまま幕引きがされようとしています。ひたすら逃げ切りを図ろうとする権力者の姿を、社会は、わけても若い人々はどう見ているのでしょうか。自らの生きざまが真実であるかどうかではなく、生き残れば勝ちと考える価値観が、どれだけその社会をおとしめることでしょう。

神の国とこの世の国

 最近、とみに世界の国々の指導者たちが、露骨に自国の利益のみを追求する有様が目立つようになっていると思います。そんな現状の中で、逆にイエス・キリストがもたらされた「神の国」がいかなるものか、鮮やかに感じられます。~愛、正義、平和、謙遜、廉潔~まさにこの世の権力が追及するところに逆行するもののようです。イエス・キリストは身をもって神の国を生き、十字架の死と復活の勝利によってそのいしずえを据えられたことです。

驚くべきよろこび

昨今「~の日」というのが多くなりました。業者さんの販売戦略で、年がら年中、何かのタイトルが巷に溢れます。その元祖の一つがクリスマスかも知れません。もうそれは「しにせ」の感があります。

 この季節、教会は時流に乗って、効果的に伝道をということになるのですが、安易にムードに流されないようにしたものです。クリスマスはまことに、キリストがわたしたち一人ひとりを救うために世に来られた、驚くべき、厳粛な愛の出来事と言えましょう。

彩りの秋

 このところ急に冷え込んできました。周りの草木も冬への備えを急いでいるようです。この時期、木々の葉が美しく色づいて来ています。道端の草花も、菊の花をはじめ、色鮮やかに咲いています。紅、黄、橙、緑、朱、紫などなど宝石箱か、錦かといったところです。

 活動の季節の終わりにこのように輝く草木のすばらしさ。人生を四季にたとえれば、秋ともいうべき老年期こそ、実はいちばん実り豊かであり、最も美しく装われる時なのでしょう。

指導者の品格

総理大臣が、外国の賓客の前で、政治は機を読むことだとのうんちくを吐いたとの報道がありました。なるほどと思います。

 大衆に取り入り、不利ことは臆面もなくひたすら隠し、折あらば手柄を喧伝し、中央銀行を用いて株価を演出する。マスコミに脅しをかけ、公務員人事を握って役人を支配する。一方で「法の支配」を説きつつ、自らは憲法を侵して恥じない。選挙に勝ち、してやったりと自信を深めているのでしょう。

 しかし、残念ながら、今日までの言動、その思想、政治家としてのふるまいを見るとき、指導者としての品格をいちじるしく欠いていると申し上げざるを得ません。人間の尊厳、歴史に学ぶ謙虚さ、自分の言動への誠実、真理への畏敬、民主主義の本義の尊重、そのどれも持ち合わせているとは思えません。ご本人は打って出た選挙の勝利で、巻き返しの風を捉えたとお思いだと思いますが、遅かれ早かれその実を刈り取ることになるでしょう。人類の歴史がそれを示しています。

闇の中も

 この夏に続いて、10月も記録的な悪天候の日々であったと報じられています。毎日毎日、目を覚ますと雨か曇り空。いい加減に気持ちが滅入ってきます。サポ好き人間にとっては特にこたえます。

 しかし、こんな時こそ忍耐と一貫性!が試されるわけで、負けているわけにはいかないでしょう。旧約聖書に出てくる、イスラエルの民のバビロン捕囚期の預言者はは歌いました。「お前たちのうちにいるであろうか・・闇の中を歩くときも・・主の御名に信頼する者が」(イザヤ書50・10)。少しのことで気分が変わりやすいのがわれわれ人間だと思いますが、悪天候続きの日々も、ぶれずに前進したいものです。厚い雲の上には、かわらず太陽が輝いていることを思いつつ。

真実の力

 奇想天外の展開を見た今回の総選挙でした。選挙当事者の人達も予想しなかったでしょう。それが何を意味するのかはこれから明らかになってくるでしょう。

 ただ、権力の座をめぐってのかけひきから生まれる、聞こえはよいが不真実を思わせる言葉や、誠実とはいいがたい動きの嵐の中で、かたくななまでに真実を貫こうとするひとにぎりの政治家たちがいたことが、一服の清涼剤、いや、ひとすじのたしかな望みを多くの国民に与えたと思います。

 

歴史を導くもの

 国会の解散が為政者によってなされてから今日まで、国民の目にはあまりにもめまぐるしい政治家たちの動きが日々マスコミによって伝えられています。それを見ながら、とかく権力争いのみにくさに、この国はだいじょうぶだろうかと思わされることです。

 このような喧騒の中で、歴史を正視しようとしない国家主義的な発言や動きが見え隠れしていることに心を痛めます。こうした空気の中で、民心はどこに向かうのでしょうか。この意味で、このたびの選挙は、候補者もさることながら、わたしたち有権者が試されているのだと思います。

 なかなか明るい展望をもつことができませんが、国家百年を見据えつつ、歴史の主である神のご支配を仰ぎつつ、粘り強く進みたいものです。

人生の実り

先日、中学校卒業50周年の記念の同窓会に参加しました。旧友に会うのは何十年ぶりでした。学年150名ほどのうち、参加は70名ほどでした。亡くなった方たちもかなりあります。

 総じて、年相応に老けていると感じられました(自分もそうなのですが)。話を聞いていると、みなそれぞれに苦労を重ね、体の方も老化現象を負いながら歩いているように思われました。そんな中で若い頃のようにとがった言動はかげをひそめ、みな穏やかになっているように見えます。年輪を重ね、まさに熟年を迎えて、人生の秋のみのりの時を迎えているんだなと思いました。皆が健やかに充実した日々を送られますように。

 (先日お話ししたわが家のバラが開きました!)

おまけのバラ

  気候の変動はこまったものです。暑さも、寒さも、雨も雪も、何十年ぶりというような極端な状況を呈してきています。動植物も対応にこんなんしていることでしょう(もちろんわれわれ人間もですが)。

 けれども、面白い一面もあるのかも知れません。この秋、筆者が面倒を見ているバラに異変がありました。

毎年初夏に大輪のピンクの花をいくつかつけて楽しませてくれています。下記は結構長く、ひと月近く楽しませてくるのですが、四季咲きできないのでしょう、花が終わるとそれきりでした。ところがです。ここにきて、根元から新芽が伸び初め、やがてその先端につぼみがついたのです。長く栽培しているのですが、こんなことは一度もありませんでした。驚きました。

 もしかしたら、この夏の気候不順がいたずらしたのでしょうか。

前半ほとんど晴天がなく、蒸し暑くありました。後半、晴れ間は

見せたものの、気温はいま一つであったと記憶します。

こんな天候の影響で芽が出て来てしまったのでしょうか。

 ともあれ、花好きの筆者としては予想外のうれしい出来事では

ありました。咲いたらまたお目にかけましょう。

歴史をみちびくもの

 昨今の殺伐としたわが国の政治の世界、そして社会のありさまを見るとき、また、北朝鮮やそれをとりまく世界の動きを見るとき、深く心が痛みます。国内外、事情はさまざまですが、何か似通った権力者のありようが垣間見えます。それは、権力を持つものが、自国のみの利益、自分の権力の保持を恥も外聞もなく追い求める姿です。目的のためには手段を選ばない権謀術策がまかり通っていると言いう感じです。

 しかし、世界の歴史を見るとき、このような状況はいつもあったと言えるのでしょう。

 中間時代のユダヤ文学であるダニエル書には、権勢を誇る新バビロニアの王ネブカドネツァル王にダニエルを通じて告げられた神のことばが記されています。ダニエルはやがて起こる王の没落を告げた後、「あなたはついに、いと高き神こそが人間の王国を支配し、そのみ旨のままにそれをだれにでも与えられるのだということを悟るでしょう」(ダニエル書4・22)と語ります。 

 また、終末の書として知られるヨハネの黙示録には、歴史の過程において決定的な没落を喫した「獣」(サタンの勢力)について、「この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった」(黙示録13・3) と記されています。これらの章句が告げるのは、諸権力の興亡を貫いて、真に世界を導くのは創造主なる神であるということ、しかし、歴史の過程においては、愚かな支配がしたたかに現れるのだということを示唆します。ともあれ、この時代にも、創造主、救い主なる神のまことの平和が前進することを祈るものです。                       「

ナビ

 最近、人の車に乗せていただいて遠距離を移動することが何度かありました。普段自分で運転しない者にとっては、今や車の必需品となっているカーナビの機能は驚くべきものです。指定した目的地に、地図上と音声で懇切に案内します。多少の誤差はあるものの、リアルタイムの交通状況を反映しつつ進路を指示するその機能はすごいと思わされます。自動運転がとりざたされるのもむべなるかな、と言ったところです。

 光ないし電(磁)波は、いかなる慣性系から発せられようと、任意の観測点の観測者にとって変わらぬ毎秒30万キロであるという、アインシュタインが発見した原理を応用したシステムなのですが、ここまで身近な案内人となっていることには恐れ入ります。それにつけても、不思議な法則が働くこの世界です。

多様な価値観を

近年、学校の夏休みが終わり二学期に入るこの時期に、学校を嫌って命を絶つ子供たちが出ることが各方面で取り上げられるようになりました。今年もそのような事案が発生しています。そこまでいかない場合も、学校生活になじめない子供たちは少なくないと思われます。

 原因は一概には言えないでしょうるけれども、背景に子供たちを囲む家庭、社会の画一的な価値観があると思われます。一人のかけがえのなさを知りたいものです。

剣を取る者は

隣国では、ひたすら核兵器の生産に取り組んでいるようです。これそが立国の道と信じてやまないようです。その勢いにあおられて、関係国も振り回されます。ともすると、戦争待望論が頭をもたげかねない実情です。

 確かに、目の前の危機に対しては現実的対応を昌くせざるを得ないでしょう。しかし、所詮、武器は武器、人殺しの道具です。武器によって真の平和がもたらされるはずもありません。イエスの言葉にあるように「剣を取る者は剣で滅びる」のです。

 関係国が、互いの威嚇によってではなく、知恵を尽くして共存、共栄の道を求めるようになることを願ってやみません。

陽光の力

 この夏は、日照時間の少なさでは二十数年ぶりとのことです。筆者の記憶に、梅雨空で終わってしまった夏がたしかにあります。ともあれ、こんな夏もあるものですね。

 野菜の生育不良、それによる値上がり、庭野草木の衰弱等々、日照不足の影響を日々目にします。いまさらのように、日の光の大切さを思い知らされまする通常であれ当たり前で過ぎてしまいますが、光によってどれほど大きな恩恵を受けていることでしょうか。

おまけのバラ

玄関先の一株のバラ。初夏にひとつ、ふたつ上品なベージュの花を見せてくれます。花が終わってから、長く伸びたツルを短く切り詰めてありました。さすがに今年はこれで終わりとばかり思っていました。

 ところが、しばらくまえに新しい芽が出、伸びだしたのです! しかし、それにしても時期的にはおそく、来年に向けてでこまで伸びるかと見ておりました。それが、なんと小さなつぼみがその先端に着いたのです。驚きました。それは日増しに膨らんで、ほどなく小さな花となりました。思ってもいなかったので、これはちょっとしたおまけでした。バラの木からのプレゼントです。

真実

 昨年から今日まで延々と続く、政権と議会、あるいはマスコミとのやりとりを見ていると、やりきれないものを感じます。納得のいく解明がなされないということもありますが、それより、政権の側に「真実」というものに対する畏敬が何ら感じられない、というところにその原因があります。いかに追及から逃げ切るかという意図しか伝わってきません。

 一国の上に立つ人々がこのようなことで、国は立ち行くのでしょうか。社会は空疎化、弱体化しないでしょうか。へたな芝居を見させられる子どもたち、若者たちが、まともに社会をになう人材となれるのでしょうか。

水やり

連日の猛暑です。記録的と言ってよいのでしょう。

 庭の植物たち、特に鉢植えの草木たちにとっては生死にかかわる大変な試練の時です。暑さのために土が乾燥してしまうからです。朝たっぷり潅水しても、昼にはもう土が乾いて白くなってしまいます。

 家にいる日は、何度も見て回ります。

 植物は水やりがすべてと言っても過言ではありません。いまはまさに戦いの季節と言えましょう。

 聖書の信仰も「祈り」という水やりがすべてです。朝に夕に、忠実な祈りをささげたい

                                                    もの。

ミニトマト

 今年ベランダでミニトマトを育てました。たくさんの実がつきました。けれども、その実はいっせいに赤くならず、ひとつまたひとつというように色ずいていくのがおもしろいと思わされています。それぞれに備わった時期があるのですね。

 神さまは、伝道旅行途上の使徒パウロに、コリントで、「この町にはわたしの民が大勢いる」と告げて励ましています。それは、同時にすべての伝道者に対する励ましでもあると思われます。しかし、収穫は一気呵成とは限らないといえましょう。神さまは、民ひとりひとりに、もっともよい時期を備えておられるのだと思います。

わたしたちは、その「時」を待ちつつ、たゆまず「種」を播き続けたいと思います。

 

良識への挑戦

 人類は、その長い歴史の中で、知恵と面識とを蓄えてきました。悲惨と闘争、流血と挫折の中からです。法も、人権も、民主主義も歴史から生まれた財産です。

 けれども、昨今の内外の情勢を見るとき、こうした不変であるべき価値に対する無感覚と、驚くべき挑戦が後を絶ちません。わが国においても、諸外国においても、権力のためにあえて正義を曲げてはばからない為政者がひしめいている感があります。第二次世界大戦後において、このような時代のあったことを絶えて知りま

                                                    せん。

AI~人工知能

 テレビのある番組で今注目されているAI人工知能の現状をレポートしていました。クルマの完全自動運転、先端医療、遺伝子情報の活用、産業ロボット等様々な分野で実用化が進んでおり、近い将来、労働市場をおびやかすだろうとのことでした。雇用の問題、発生する余暇との付き合いのことなど新たな課題も予想されるとのことでした。

 しかし、専門家は、人工知能の開発がどんなに進んだとしても、それを過度に恐れる必要はないのだとも言います。その理由は、AIがどんなに進んでも、それはどこまでも情報の集積と、処理能力の進歩であって、それ自身が意識をもつことはないからだ、とのことです。ここでちょっと安心するとともに、処理能力ではとてもAIに太刀打ちできないわたしたちであっても、そのわたしたちが意識を持ち、価値観を持って生きているということの重さ尊さを痛感させられることです。パスカルの言うように、わたしたち人間は川辺に生える葦のように弱々しいしい存在でありながら、この自然界を観察する能力をもつ「考える葦」なのだな、と感慨深いものがあります。

不思議なひと時

 先日、教会の礼拝室を借りて、家人の個展が開かれました。一昨年に続いて二度目です。本人がこつこつと描きためた作品を多くの方にみていただくことはたいへんさいわいなことでしたが、おいでくださつた方々とのしばしの語らいの時は貴重でした。

 いわゆる用件で来られるのでなく、まったくのご好意で観覧のために時間を作り、おいでくださったわけで、お茶をいただきながらの語らいの時は得がたい、不思議な時間でありました。そこでは、作品の感想はもとよりですが、お互いのさまざまなことがらを報告したり、分かち合ったりしたことでした。おいでくださったみなさんに心からお礼を申し上げます。

緑・・・不思議な色

 朝、時間が取れる日は必ず30~40分歩きます。住宅地を抜けて自然公園に入り、木立の中を過ぎて行きます。絶えず変わる季節の面影をたどるのは何にも代えがたい喜びです。

 今は初夏。若い緑季節です。緑は癒しの色、不思議な色です。遅くまで酷使する目の疲れが癒されていきます。目だけでなく、心身ともに回復していきます。特に今の季節、輝くような黄緑は、匂い立つように、道行く者を包んでくれます。

 創造主を讃えずにはいられません。 

科学と哲学

ノーベル賞物理学者、南部陽一郎氏が書かれた量子力学の本を以前読んだことがありますが、その中出氏は、科学と哲学をめぐる欧米の伝統について何度か触れています。

日本ではあまり注目されないのだが、と。

 科学と価値観、人生観とは切り離すことができません。昨今、内外の軍事予算と科学研究との接近が注目されています。こうした状況を見るとき格別に、科学者は哲学者でなければならないのだ思わされます。

哲学なき科学は盲目です。確かな価値観、人生観をもたない科学は、人類に対する責任を全うすることは

                                                できないでしょう。

ビワの実

 わたしたちの教会の礼拝室のベランダに、鉢植えのビワがあります。ここに移ってきたときに、前の施設の庭で育てていたもので、今回は場所の制約があり鉢植えになったわけです。

 実生で育てたものですが、前のシーズンに初めて花が咲きました。白い小さな花が沢山咲きました。やがて小さな実となり、成長を楽しみにしていたのです。ですが、剤念ながら途中で成長が止まり、みな枯れて落ちてしまいました。冷たい風にあたってしまったのかも知れません。ビワは日当たりのよい場所でないとだめなのです。

 今シーズンもやはりかわいらしい白い花をたくさんつけましたが、前のことがあるので半ばあきらめつつ、見守っていました。やはり、大半はだめになってしまいました。が、今回はなぜかたった1こ実が残り、しかも次第に大きくなっているのです。少し前から、ビワらしいあの色がうっすらと着き始めたのです! たったひとつ残ったビワの実。ひとりっこの成長を見守るように、楽しみに眺める今日この頃です。はたして口に入るでしょうか。いや食べてしまうなんてもったいないか。

試練の時代

昭和17年6月発生した、国家によるホーリネス系教会牧師の一斉検挙とそれに続く教会解散の弾圧においては、「再臨のキリストと天皇陛下とどちらが偉いのか」とか「天皇陛下も罪人なのか」など稚拙な尋問を繰り返し、すでに決められている方向で形ばかりの調書が作成されました。無理矢理に治安維持法、宗教団体法違反の罪状が押し付けられていきました。

 これは、時期は前後しますが、他の一部の宗教団体、大本教、人の道、ほんみち等において同様に行われています。いずれも、強引な拘留、取り調べ(拷問) 、起訴、裁判です。

 「共謀罪法案」が過日衆院法務委員会で、数の力を背景に強行採択されました。今国会で本会議採択が目指されています。思想、信条の引き締めが日常的に行われている国々が少なくない中で、戦後70年、わが国は例外的ともいえる平穏さの中で、自由が保障されてきました。わたしたちもそれを当然と考えていましたが、どこかに甘さがあったのでしょうか。しかし今、事情は変化を始めました。恣意的ともいうべきリーダーによって、過去3回にわたって葬られ続けてきたこの法案が採択されようとしています。これは嘆かわしいことではありますが、ある意味、平穏な社会に甘えてきたわたしたちを目ざます、試練であるかもしれません。(もちろん、多くの国民の声で、この得体のしれない法案が撤回に追い込まれることを願うことに変わりはありません。)。

「説教集」を読む

 キリスト教の書物に「説教集」というジャンルがあります。古今東西、有名無名の説教者たちの説教を編集したもので、おびただしい数が出版されています。

 ところで、なぜか筆者はこの手の本にもともと興味がありませんでした。これという納得いく理由もみつかりませんが、ともかくそうでした。以前、ある先輩からかなりの数の説教集をいただきました。けれども、そんなわけで、いつか読むかもしれないぐらいの気持ちで、しまったままでした。

 それが、2、3年前、ふとしたきっかけから、そのうちの一冊を手に取ることになったのです。それは、旧約学者でもある今は亡き牧師のものでした。ところが、何気なく読み進むうちに、筆者はその説教に引き込まれ、旧約が今日に語り掛ける確かなメッセージに感動させられることとなったのでした。そこで、今更のように、説教集というものの価値を教えられたのでした。

 以後、手元の古い説教集を一冊、一冊愛読するようになったのです。そして読むほどに、その価値を再確認させられてきたのでした。 考えてみれば、著者である牧師たちが、心血を注いで講壇で語ったのが説教で、活字とはいえその記録である説教集は、いわば彼らの存在をかけた作品であるわけです。還暦を越えた今になって、そのことに気づかされたことです。引き続き、大切に説教集を味わわせてもらいたいと願わされます。

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新緑の癒し

 季節はまさに新緑の美しい時を迎えました。日本中どこも初々しい若葉の緑が見られることと思います。

 筆者が朝のウォーキングで訪れる公園も育ち始めた木々の緑が訪れる者を歓迎してくれます。

 この季節の緑の面白いところは、草木の種類によって、同じ新緑でもその緑の色合いが異なり、アンサンブルを見せてくれるところです。そしてその緑が、どれも新鮮で、輝いているのがまた楽しいものです。

 夜遅くまでパソコン画面に向かうことの多い筆者は、目覚めのよくないことがよくあります。朝起きても、目がしょぼしょぼしているのです。そして気持ちまで干からびていることもしばしばです。けれども、軽い体操をしてから公園に向かい、新緑の林の中を進んで行くと、かすんだ目がいやされ、しぼんだ気持ちも生気を取り戻していくのが分かります。自然、特に新緑には不思議に人を癒す力があると感じます。

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まことの統治者

「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち 人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか・・・」(詩編2・1、1)。

 昨今の世界の様子を見ていると、どうしてもこの有名な聖書の言葉が筆者の心に浮かんできます。指導者たちは権力を誇示して国益を争います。無理が通って道理が退きます。このざわめきを神さまはどうご覧になっておられることでしょうか。

「天を王座とする方は笑い 主は彼らをあざけり」

(同2・4)ともあります。まことに天の父の義のご統治が現わされることを祈らされます。「み国を来らせたまえ」(主の祈り)と。

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時代錯誤

 現政権は、何かに取りつかれたように戦前回帰を押し進めています。安保法制、「共謀罪」法案、「教育勅語」の容認等々。この先何が来るのでしょうか。あの悲惨な敗戦と戦後70年のわが国の歩みがまるでなかったかのように、これらの実現に突っ走っています。

 このような流れは、明治維新からあの無謀な戦争へと進んだわが国の政治と社会の流れの再現です。あやまちの歴史に学ばぬ国に、まことの祝福はないでしょう。国民が危機感をもって対応すべき時を迎えているのかも知れません。

 

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ライラック

いよいよ4月。春も本番を迎えます。周りの鉢植えの木々も新芽をふくらませています。そのひとつがライラックです。筆者の郷里、長野県では普通にあちこちでその木を見かけましたし、我が家の庭にもあって、毎年美しい緑の葉と、薄紫の花を楽しませてくれました。生育も早く、枝がよく伸びました。

 けれども、当地(横浜)ではあまりよく見かけないような気がします。以前から苗を手に入れたかったのですが、なかなかかないませんでした。それが、去年の早春であったかと思うのですが、たまたま訪れたあるホームセンターの植栽コーナーで見つけ、購入することができました。とてもうれしく思ったものです。

 昨年の初夏、その花を楽しませてくれました。道端のその鉢植えを見つけて、「懐かしい」と喜んで声をかけてくださった北海道出身のご婦人もありました。夏の間、しきりに枝目が出てきましたが、すべて取り除いていました。秋になり葉が散ってからは、つい最近まで芽が固いままなんの変化も見せず、ちょっと心配していました。選定しすぎて弱ってしまったかなと気にかかっていました。しかしここにきて、その芽がふくらみ始めました。ああよかった、というのがいつわらざる感想です。とともに、その芽の間から、花芽がのぞきだした今は、美しい黄緑の葉がでて、薄紫の花が咲くのが楽しみでなりません。あらためて思います。命ってすごいな、と。

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真に問われるべきもの

 「森友学園」の学校開設事業に伴う用地取得をめぐる疑惑に関係するニュースが毎日報道されています。国有地が格安で森友側に提供されたことで、この事業に対する政権の関与の有無に国民の関心が寄せられています。

 確かに、開設に向けての異様なまでの関係の役所の厚遇を見ると、政治家の影響力の解明など、明らかにされるべきことがありましょう。

 けれども、報道の焦点とはなっていませんが、実はいちばん大きな問題というべき事柄があります。それは「教育勅語」の問題です。それは、かつて日本を誤らせた国家主義と深く結びついた戦前の価値観を象徴するもの、日本国憲法の基本原理に根本的に抵触する教育思想です。「大日本帝国憲法」下の教育理念です。森友学園の理事長はこれを正面に掲げて、国家主義教育を推し進めてきました。このような法人がノーチェックで認可されていること自体が異様ですが、総理夫妻、防衛大臣はその時代錯誤ともいうべき方針を公然と称賛してきた、しているわけです。そのような姿勢は、一昨年、現憲法の規定を無視して、「平和安全法案」を閣議決定し、国会の強行突破をした姿勢に直接つながるものと言えます。

 しかし、これまでのところ、マスコミからも、野党の動きの中からも、この点を指摘する声をあまり聞きません。なによりも、今度のことがあって多少は下がってはいますが、依然世論調査での内閣支持率は5割を保っています。寒心に堪えません。憲法のよって立つ平和理念を守る義務を憲法自身が国民に与えています。「森友」事案の背後にある本当の危機に、もっともっとわたしたち国民が気づき、対応しなければならないとおもいます。

 

 

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吹きだした新芽

 庭木の新芽が出始めたな、ということは水やりの時に気づいていました。しかし先日の朝、久しぶりにゆっくりと家の周りの植物を見回っていて驚きました。日当たりの決して良くない、隣の建物との間のスペースに植えられている「山吹」の新芽が、いつの間にか大きく成長を始めていました。それはもう「芽」というよりは「葉」という感じで、色もかなり濃い緑なのです。毎年のことですが、今年もまた命の力に感動する季節が始まっています。神さまからのありがたい贈り物ですね。

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自由を子どもに

 京都大学医学部を卒業し、長く小児科医を勤められた松田道雄先生の書かれた表題の岩波新書を読みました。70年代に発行されたものですが、戦後の経済成長の中で失われていった子どもの自由空間と、それに比例して進行した教育の管理強化をめぐって、所感を書き綴っています。21世紀の今読むと、当時と現在との社会とくに子供たちの成育環境の変化を感じざるを得ないのですが、たとえわずかでも、人間らしい自由な時間と空間 を子どもたちに残さなければ、と思わされました。 

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大久保利通のこと

 以前古本屋で買った新書本で、大久保利通の生涯と働きを読んでいます。この本で、幕末の日本の葛藤がどんなにたいへんなものであったかをいまさらのように教えられます。

 尊皇攘夷か、開国か、諸外国の開国圧力のもとで幕府と朝廷、諸藩を巻き込んで一進一退の攻防が繰り広げられます。その中で、薩摩藩出身の大久保がいかに苦闘したか、はじめて知ることばかりで驚きます。

 それにしても、あの長い鎖国制度のもとで、世界に目を向ける、広い見識のある人々がこの国に存在していたということは驚くべきことだと思います。

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福音を伝える

最近読んだ本にこんなことが書いてありました。

 第二次大戦中、あのナチスの狂気が吹き荒れていた時、それと最も勇敢に戦った牧師の一人がマルティン・ニーメラーでした。その歩みのゆえに入獄もした人です。

この人が戦後、夢を見ました。それは重苦しい夢でした。その夢を通して彼はひとつのことを悟ったというのです。それは、戦争中彼が怠っていたことを気づかせました。それは、彼がヒトラーに福音を伝えなかったということであったというのです。そして彼は、深く悔いたと言われます。

 イエス・キリストによる神との和解の福音にあずかった者は、それをあらゆる人に伝

                                            えるという負債を持つものなのだと、改め

                                            て思わされます。

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「前に進まなければ・・・」ある老いのかたち

  先日のこと、用事で戸口を出ると、家の前に80代くらいのご老人が倒れておられました。立ち上がろうともがいているのですが、どうにもならないのです。驚いてそばにいき、手をお貸ししながら話を聞くと、行きたい所があると言われます。これではとてもと心配になり、目的地までお支えしながらおともをしました。

 一見粗末と言わざるを得ないいでたち、汚れた履き物、出てきた妻が心配して「ご家族に連絡したほうが」というと、家族はいないと言われます。「うちで少し休んでからどうですか」というと、とんでもないという表情で「前に進まなければ」と強い語調で言われました。そのあとも「進まなければ」と口にされつつ、懸命に歩いておられました。額には冷や汗とおぼしい滴りが見えます。

 お一人暮らしなのか、どこかの施設におられるのかわかりませんでしたが、いずれにせよ孤独な生活をしておられる様子が伝わってきました。同時に、「進まなければ」ということばに、ぎりぎりの境遇のなかで、生きねばならないという執念のようなものを感じました。ここにも、一つの老いのかたちが

あると思わされたことです。

  

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いたましい代償の予感

米国の新大統領就任一週間、その仕事は世界に衝撃と動揺を与えています。多くのマスコミは、その強引なやりかたについて懸念を伝えています。

 一方、一部にはその「わかりやすさ」(?)と経済効果を評価する向きもあるようです。もう少ししないとほんとうの評価はでてこないでしょうが、明らかのは彼が世界の平和と安定を考慮してはいないこと、他と共に歩むことを志してはいないことです。いつの日かその代償を払うことになるのでしょう。

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寒くてこそ冬

 地球環境の変化のためでしょうか、気象予報士泣かせの変わりやすいお天気が続いています。

 暖冬傾向は否定しようがないですが、それでもしまりのない(?)温暖な日々というわけではありません。日本海側ではかなり雪が降っていますし、今後も降りそうな気配です。関東方面もしばらく強い寒気に見舞われそうです。

 雪で苦労しておられる地方、寒さに脅威を感じておられる方々には申し訳ないですが、今は寒中、やはりこの時期は寒くあってほしいと思うものです。寒さはこたえますが、この寒さが草木にとっては大切なものです。これあって春の芽生え、夏の育成が健全となります。その意味で、今が寒いということはありがたいことです。

 毎年そんなことを書いているような気がしますが、この時節はほんとうにそう思います。筆者は長野の出身ですが、以前は冬の朝、小さい子は寒さのためになきべそをかいていたものです。でも、この冬のさむさがあってこそ、春の訪れはすばらしいものとなります。

 

 

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暮れのにぎわいの中で

年の瀬に買い物で近くの店に行くと、さすがにお客さんで混雑しています。正月を前に家族で買い出しをしています。昔から変わらぬ風景ではあります。

 でも昨今は、世の中の格差が広がり、経済的に苦境にある世帯が増加していると伝えられています。この暮れにも、わびしい思いをしている人々が少なくないでしょう。弱い立場の人たちをあからさまに切り捨てて、ひたすら大企業の収益の増大に奉仕し、また票の確保に直結する政策のみをおいかけるような政治がどこまで続くのでしょうか。

 来年はみんなにとって、明るい世の中になってほしいと願わずにはいられません。

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友、遠方より来る

 私たちの教会で先日、夜のクリスマスの集いがありました。その集いに、珍しいお客さまが参加してくださいました。親子のお二人連れです。

 お二人は、小生の前任地(長野県)で交流のあった方々です。教会員ではありませんでしたが、親の代からながく係わりがあったのでした。お一人はお歳を重ねられた母上で、もうお一人は年配のご子息です。他のご家族はもうお亡くなりになり、お二人で静かに暮らしておられます。

 今年はお互いにあまり連絡はなく、お元気だろうかと案じていたところでした。しばらく前に、ご用事でこちらにこられるので、お二人で立ち寄りたいとのご連絡をいただき、ちょうどクリスマスの集いがあるということで出席してくださったのでした。ご子息の車で長野からこられましたが、九十近い母上は、しっかりしてはおられますがさすがに足がお弱りになり、近くのパーキングから車いすで子息と一緒に見えられました。お変わりない元気なお顔を拝見し本当にうれしく、また懐かしくありました。

 子息は毎年のように、母上を車に乗せて各地に連れてゆかれ、お二人で観光を楽しんでおられます。このたびもよくご面倒を見られ、頭が下がりました。なかなかできることではありません。せちがらい今日の世相ではありますが、このようなご家庭もあり、慰めをいただくことです。ともあれ、遠くの道をいとわず、しかもこの寒い時期によくぞお尋ねくださったこと、なによりのクリスマスプレゼントでした。

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謙遜

オランダ改革派教会教会の牧師であり、英国のケズィック・コンベンションの講師でもあったアンドリュー・マーレーの著作に、「謙遜」があります・彼はその中で、キリスト者の最重要な資質であり、しかもいちばん忘れられやすいのが「謙遜」であると指摘し、警鐘を鳴らしています。

 キリストの受肉とその生涯を貫いているものこそがこの「謙遜」です。それは高ぶりを退け、自己をむなしくして他に仕えます。彼の言うように、一般社会でもキリスト者の共同体でも、この資質さえあれば防げるトラブルはいかばかりでしょうか。高ぶりがどれほど蔓延していることでしょうか。

 キリストのご人格とその生涯を深く黙想し、彼の謙遜をしのびたくあります。また、聖霊の賜物であるこの謙遜がお互いの品性と行動を貫く支柱となるまでにキリストに自分自身を明け渡し、整えられたいと願わされます。

 

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哲学なき政治

 「民主主義は数だ」これが現政権と与党の大多数の公理でありましょう。議会で安定多数を確保した政権は、戦後日本の骨格をなしてきた原則の無力化をはじめ、国民の意見が大きく分かれるような様々な課題について、強引な運営を進めています。昨年の安保(戦争?)法制強行、「為にする」公共事業で、経済対策の目玉と謳われるリニア鉄道への踏み出し、財政規律の後回し、米軍沖縄基地問題に対する現地の反対民意の蹂躙、原子力発電への固執と電力業界への手厚い政策、福祉のきりつめ等々心当たりは枚挙にいとまがありません。このほか、バランスを欠いた軍事費の増強、戦前教育への回帰、高等教育における理数科の偏重など見識を疑う政治方向を示しています。

 これらを見ていると、根底にある思考は大きく国家主義の標榜、そして周到な集票対策といったところに集約されるのかと思います。そして、そこで感じるのは哲学の欠如、それと歴史に学ぶ見識の欠如です。政府代表者は外国訪問でよく「自由と民主主義という共通の価値観」を口にしますが、わが国でいま最も軽視されているもの、そして最も必要とされるものそれこそ、民主主義の精神ではないかと思います。「法の支配」ではないかと思います。さらに、周到を誇る集票対策の中で、その政治方針に古今人類の普遍的価値に対するリスペクトがまったく感じられません。その意味で哲学がないのです。寒心に堪えません。このような歩みがいつか必ず行き詰まること、それこそ歴史の証明する所です。この日本に、志高き政治家(政治屋でなく)が起こされることが切望されます。

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木々の変容

 里の林も紅葉の山場を迎え、分け入る者の目を楽しませてくれます。景観の変化は急ぎ足で、歩くたびに印象が変わっていきます。この季節のだいご味です。

 夏の間、緑一色の林、単調で目はあまりそちらに向くことはありません。道端の小さい花たちや種々のチョウが観察の対象です。ところが今は、紅葉が日々に進み~紅葉というものの、バリエーションに富んだ黄色が主役ですが~目は自然、林のほうに奪われます。これまで緑に埋もれて目立たなかった木々が、一本一本、思わず感嘆してしまうような美しさで、その存在を際立たせています。昔の人は、このような林のにぎわいを「錦」にたとえましたが、まったくその名に恥じない眺めです。

 人間の経済活動によって環境が悪化しつつあり、自然界も痛ましいともいえる変容を見せていますが、それでも、今年の秋もこのような林のたたずまいを楽しませてもらい、ありがたいような気持です。いつまでもこうであってほしいと願いつつ。

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世界の成り立ちの不思議

 アメリカのノーベル賞物理学者、レオン・レーダーマンが量子物理について書いた本を最近読みました。著者はこの本で特に、最近発見されたヒッグス粒子の意義について書いています。それがいかに宇宙全体に存在し、他の大部分の粒子に質量を与えるのかを解説します。そして、彼は、量子物理の探求は道半ばであり、したがって宇宙の成り立ちの解明もまだまだこれからであると論じます。

 専門家ではない筆者にはすべては理解しきれないですが、その説く物質そして宇宙の成り立ちについての解明はとても興味深いものです。子供のころから物理現象に興味が深く、特に磁力や重力、電気の力が空間を介してどうして伝わるのか不思議で仕方がなかった者にとって、あらゆる物理現象、エネルギーを統一的に理解することを可能にする、そのカギである量子物理学が驚くべき進展を見せつつある時代に生きているということはすごいことだな、と思わざるをえません。小さいときからの疑問についても、素人なりになるほどと納得できつつあることは個人的にたいへんうれしいことです。

 あらゆる物質とその運動は不思議な量子のふるまいによって成り立っている、その仕組みを知るにつけ、宇宙の摂理に驚嘆せざるをえません。知れば知るほど、それを偶然や不作為に帰することはできないように感じます。

 クォーク、レプトン、ゲージ粒子、ヒッグス粒子そして、宇宙の全質量、全エネルギーの9割以上を占めるというまだ解明されていない暗黒物質、暗黒エネルギー、これらの成り立ちと相互のかかわりの解明の進展に期待はふくらみます。

 

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ふるわれないみ国

筆者の尊敬する信仰指導者の一人、故スタンレー・ジョーンズ博士が、生涯語り続けられたメッセージの一つが「ふるわれないみ国」(新共同訳「揺り動かされることのない御国」英改訂標準訳"kingdom that cannot be shaken"ヘブライ人への手紙12・28)というものです。彼は、各人が神の法則に背くあらゆる生きざまを悔い改め、キリストの支配に全生涯をゆだね、従順に従うことこそ、真の祝福に満ちた不動の生涯であることを説きました。生けるキリストのご支配は、人を解き放ち、真の自由を約束する、さらに復活のキリストがご支配されるところ、人は心も体も健やかにされると率直に語りました。さらに彼は、その原則は個人の生涯のみにとどまらず、この世界のあらゆる場面でこの命の約束、命の法則は有効なのだと語り続けました。

 ジョーンズ博士は、単に個人の救済、霊肉の癒しをのべつたえたのみならず、このいわば神の国の法則は、国と国の関係の中にも真理であることを信じ、語りました。愛と真理が尊重されるところに健康な国際関係が生まれる、その法則を無視するならば関係は病むのだと。太平洋戦争直前、博士が天皇にあてて戦争を思いとどまるようにとの電報を送ったことは有名です。残念ながら、わが国は無謀ないくさに突き進み、取り返しのつかない悲劇を生んだのでしたが。

 昨今、世界の各地に、人類の普遍的な価値よりも、当面の国家利益、権力維持をあからさまに追求する指導者たちがあらわれているように見えます。目的のために手段を選ばない、侵してはならない普遍的な原則をないがしろにして恥じない指導者が、内外で力を得ています。強い権力、大衆を扇動する能力が政治力だと考えられています。「いつか来た道」ということばが頭をよぎります。

 けれどもそれにもまさって筆者の脳裏によみがえるのは、博士のその言葉です。権謀術策で真の平和と繁栄を築くことはできないのだと思います。

 

 

 

 

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愛のきずな

 いつものように近くの公園を散歩していると、こんなことがありました。公園は県立で割合規模も大きく、いつも散歩やジョギングを楽しむ人を見かけるところです。

 久しぶりの穏やかな天気で、気持ちよく林の中を歩いていると、後ろから誰か走ってきます。追い越されて気付きました。二人連れです。ちょっと見に御年輩で七十前後のご夫妻と思われました。その時、筆者の目にお二人の背中の大きなゼッケンが目に入りました。右側を走る奥様のゼッケンには、「視覚障害」とありました。そのとなり、左側を走る御主人のゼッケンは「伴走者」となっています。すべがわかりました。目の御不自由な奥様を、御主人がリードするように伴走しておられるのです。そして、筆者の目はすぐにお二人の手に目が行きました。ご主人の右手がやさしく奥様の左手を引いています。しかも、万一手が離れても大丈夫なように、少し太めのひもでお二人の手が結ばれています。そして、そのお二人はこわごわというよりも、かなりの速さで走っておられ、たちまちそのお姿は林の中に消えて行きました。

 筆者はその時ふと、もしかしたら奥様が途中失明されたのだろうか。ご健康維持のために御主人がリードして運動しておられるんだろうかと考えていました。まぶたには、ひもで優しく結ばれたお二人の手がいつまでも残っていました。どうかこのご夫妻の老いの日々が、優しい光の中にありますように。

 

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こどもたち~未来への財産

 

先日、牧師館のドアを開けて通りに出ようとすると、ちょうど近くの託児所のちっちゃなこどもさんたちが、保育士さんたちに連れられて公園に行くところにでくわしました。家から出てきた筆者と目が合うと、そのこどもたちは、にっこり笑って小さな手をふってくれました。保育士さんもうながすように「こんにちは」と言うと、かれらも口々に「こんにちは」と言います。

 最近は知らない人にはかかわらないというしつけがされている時代となっていますが、そのこどもさんたちのあどけない笑顔に接して、なんだかうれしくなりました。

 こどもたちは日本の、そして世界の財産です。未来への財産です。ひとりひとりが幸せな人生を送ることができますように、と心に祈りました。       

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時代は巡るか?

 最近の国内外の情勢を見ると、正直気が重くなります。昨年の今頃、わが国の憲法の大きな特色である「平和主義」を骨抜きにしてしまう、いわゆる「安保法案」が国会を通りました。あの戦争の惨禍と、それをもたらした過ちへの反省はいったいなんであったのか、と思わざるを得ない状況が続いています。

 国外では、自己の政権を維持するために、大多数の国民を戦火の恐怖にさらして恥じないシリア政府とそれを支援する大国、自国の利益を確保するためになりふり構わず領海拡大を図る中国、これまたなりふりかまわず、世界における威信を保とうと、旧領土の武力接収、反社会的国家(?)の支援を恥じないロシア、品格とはおよそ縁のない差別的、挑発的な発言で大衆を取り込もうという、他ならぬ民主主義の庇護者を任ずるアメリカ合衆国の大統領候補などが目白押しといった現状で、これが世界のリーダー、またはリーダーを目指す人々かと思うと、暗澹たる気持ちにならざるをえません。

 筆者は、第二次大戦後に生まれ育った世代で、冷戦の時代ではあったものの、日本も世界も、戦争の悲惨を避け、平和を増進させようとの空気が濃厚であったように思います。しかし、上述のような現状を見ていると、今の指導者たちは、あの大戦の悲惨をどう考えているのか、あの狂気の歴史をどう記憶しているのかと思わざるをえません。

 誰かが言ったように、歴史は繰り返されるのでしょうか。人間は少しも進歩す

                                   ることはないのでしょうか。

                                   ともあれ、内外の趨勢はどうあれ、わたしたち一人一人が歴史に学び、良心

                                   の声をしっかり保持してゆかなければならないと考えます。力によって、永続

                                   的な繁栄を獲得することは決してできないのですから。

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秋の到来

 ここにきて、大池公園(こども自然公園)の木々の葉の変化が見られるようになりました。桜の葉はもうかなり前から散っていましたが、モミジやそのほかいくつかの種類が色づき始めました。いつまでも暑く、秋のことなど考えられませんでしたが、やはり秋の気配はまがりなりにも(?)漂ってきたようです。

 地球環境の温暖化で、陽気はどうかなってしまっていますが、季節はそれなりに進んでいるようです。もうかつてのようにとはとても望めませんが、それでも、たとえささやかでも、残された季節のたたずまいを大切に味わってゆきたいと願うものです。

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マリア地蔵尊

 過日、長野県で開かれたある会合に参加した折、参加者有志で、木曽の旧中山道宿場町、奈良井宿を見学する機会がありました。よく保存された町並みを楽しみつつしばらく歩くと、街の一角に臨済宗の寺がありました。実は、この寺を訪ねることがこの見学の一番の目的でもあったわけです。それというのは、ここは江戸時代、キリシタン禁制の折、隠れキリシタンがいてかれらが信仰のよすがとしていたと思われる、マリア地蔵で知られたところだからです。

 といいながら、筆者自身はそのことを詳しく知っていたわけではなく、以前だれかからおおざっぱに木曽には隠れキリシタンの遺物があるときいていただけでしたが、今回詳しい方の情報でここに来たわけです。

 確かにこの寺の墓所の奥まった一角に、小さく区切られた場所があり、その真ん中に石造りの像が鎮座していました。ちょっと見ると座位のお地蔵さんといった感じですが(子育て地蔵を模したものと言われています)、その頭部は失われています。首なしです。説明書きによれば、恐らく隠れキリシタンの存在が見つかり、像が破壊され廃棄されたのであろうとのこと、それが昭和の初めごろ偶然土中から発見された由。腕に抱かれた幼児の手には、十字架とおぼしきものが握られています。背中に回ると、刻まれた十字架らしい掘り込みが確認されます。

 この傷だらけの座像を目にして、この木曽谷にも隠れキリシタンがいたので

                                   あり、信仰には過酷な時代の中で、神を仰いで生きていたのであろうこと

                                   がまざまざとしのばれたことでした。 

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ちがう道

 先日、いつものように自然公園を散歩していると、幹線遊歩道のある箇所がバリケードで封鎖され、通行止めになっていました。何の予告もなく、おまけにう回路の表示もないので、少し不愉快な気持ちになりました。でも仕方ないので近くの小道に迂回することにしました。めった通らないコースです。

 しかしこれが、歩いて見るといつもと違う風景や林のたたずまいに触れることとなり、新しい発見もあったのでした。

 考えてみると人生も、自分の予定や思いが図らずも封じられ、考えていなかったコースを強いられることがあります。それでいらだったり、不遇をかこったりするのですが、もしかするとそこで、なにか思いもかけない意味を発見したり、かけがえのない出会いをする機会が潜んでいるかも知れません。そう考えると、回り道もけっしてあなどってはいけないと思わされるのです。

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忘れ物

 しばらく前のことです。ATMにキャッシュカードを忘れてしまいました。あとで気がついて戻ってみたのですが、もうありませんでした。すぐに銀行に電話して、使用中止の処置をしてもらいました。

 再発行申込書をもらいましたが、忙しくて数日経ってしまいました。そんな時、銀行から、警察から落し物が届いているとの通知があったと連絡をいただきました。どなたかが、わざわざ届けてくださったことを知りました。

 銀行の担当の方が、古いのは破棄して新規に発行しますか、と聞かれましたが、今までのを警察に取りに行って、使用中止を解除の手続きをし、再度使用することにしました。

 人の親切が身に沁みたことです。

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気候変動の時代に

近年、日本各地、世界各地で極端な暑さや寒さ、干ばつや洪水が起こっています。これについて、大昔から繰り返されている気候変動の一環だという人もありますが、筆者は温室効果ガスによる気温上昇との関連が濃厚だと見ています。自然変動では今のような短期間の大変動は考えられないからです。

 状況は今後さらに悪化し、経験したことのない段階にはいってゆくでしょう。覚悟が求められます。平均気温の上昇は、予想を超えてあらゆる形で地球環境の変動をもたらし、その結果として、同時多発的に、致命的な不具合を全世界にもたらすことは想像に難くありません。いやすでに干ばつや洪水、海水面の上昇、熱帯性の有毒生物の拡散など、日頃のニュースで伝えられてるところです。

 こうした現実はわたしたちを悲観的にしますが、絶望することは良いことではないでしょう。なぜなら、人類は「改める」なら状況を改善することができるからです。世界の人が、まず自分たちが置かれている現実を認めねばならないでしょう。次に、際限なき消費の文化を真摯に見直すことです。

指導者も民も、次の世代への責務に真剣に向き合わねばなりません。さもなければ、やがて取り返しのつかない時を迎えることとなりましょう。その時はさほど遠くはありません。

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確かな価値観

 ある全国紙に、終戦の日に寄せてでしょうか、かつて中曽根内閣で官房長官を勤めた自民党長老で、今はなき後藤田正晴氏の所感が掲載されていました。

 氏は、戦争を経験したものとして、憲法の平和主義にこだわったとのことで

す。それは、あの戦争中から敗戦にかけて、国を指導した人々の姿を見ていて、二度と戦争をしてはいけないと肝に銘じたからなのだといいます。その人々の多くは、戦時は国民を戦争に駆りたてておきながら、負けたとたん、責任を明らかにしないまま、戦勝国にこび、身の安泰をはかったと言われりました。そしてわかったことは、この国には確かな価値観がないのだということだったというのです。それだから「戦争」を始めてはいけないのだ、と考えるようになったとのことでした。それゆえに、自民党に身を置きつつ、党是である自主憲法制定、再軍備の棚上げを敢えて試み、右派総理の中曽根内閣にあって戦前回帰の動きにくぎを刺し、中東への自衛隊派遣の動きを封印させたとのこと。

 戦後七十年余、何事もなかったかのように、戦前の価値観が語られるようになりました。確かに、国を取り巻く情勢は厳しさを増していますが、無数の国民を巻き込んだあの戦争の悲惨の原点を忘れてはならないでしょう。後藤田氏の信念とその歩みに、深く考えさせられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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障がいをもつ人たちの思いに寄り添う

このあいだ、脳性まひをもつクリスチャンの友と久しぶりに会う機会がありました。再開した開口一番彼が口にしたのは、過日、神奈川県内の障がい者施設で起きた不幸な事件に、どれだけ彼が衝撃を受けたかということでした。今はやっとなんとか立ち直ったけれど、とも言っていました。

 事件以後、障がいをもつ方たちが、外出を恐れるようになったとの報道もされています。施設入所者、在宅者を問わず、これら何らかの障がいを持つ人たちが受けた痛み、恐れはどれほどでしょうか。

 犯人は突出した異常者としても、その考え方のある部分は、社会の持つある種の偏見を代弁していることも事実でしょう。そのことが、関係者の心にどれだけの影を落とすことかと思われます。そのようなものの考え方を断固として拒絶するとともに、さまざまなハンディを負う人々のはかり知れない痛みに心を寄せたく願います。 

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アスリートの汗と涙

 リオデジャネイロでオリンピックが開催されています。施設の準備、治安、衛生、国情、ドーピング問題等々、心配されましたが、なんとか競技が進められており、その様子は刻々伝えられています。

 どの競技も、各国から出場している選手たちは懸命にプレーしていて、テレビで見ているこちらにも、そのひたむきな取り組みを通して、熱い気持ちが伝わってきます。

 競技が終わった後、勝ったにせよ負けたにせよ、涙をこらえる場面をよく目にします。こちらも胸が熱くなります。試合が終わった後、勝ち負けを超えて相手をたたえ、握手し、ハグする姿には思わず感動させられてしまいます。だれもが、スポーツはいいな、と思わされるのではないでしょうか。

 もし、オリンピックがなかったら、スポーツも今日ほど世界に隆盛してはいなかったのではないかと思わされます。四年に一度、開催されることで、全世界のアスリートは夢をもって精進するのでしょう。

 招致にまつわる金の問題、競技設備と環境の問題、国威発揚の場でもある故の、組織的不正の問題等々、正直うんざりさせられるような事柄が多くありますが、ともかくも、世界の若者たちの出会いと切磋琢磨の場として、これからもオリンピックは続けられてゆくのでしょう。

 四年後は東京で開催されるのですが、叡智を尽くして、課題を克服するさわ

                                   やかな、そしてスマートな大会としてほしいものです。

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平和への想い

  あの戦争に思いをはせ、平和を考える季節を迎えました。筆者は戦後生まれ、直接の記憶はありません。ただ、子どもの頃、空高く飛ぶ飛行機を見ると、「B29だ」などと口々に言った記憶は鮮明です。しかし、まさに戦時中のことは、今は亡き親たちから聞いたこと、戦時体験者の方々から伝えられたことから想像するほかはありません。しかし、当たり前のように享受してきた「平和」な年月が、決して当たり前ではなかった事を知って、「今そしてこれから」と真摯に取り組まなければならないと考えています。

 学校では現代日本史をまともに教わった記憶がありません。不出来な学生であったことを棚に上げてはいけないのですが、同じようなことを耳にすることも多く、あながち自分だけの問題ではないように思います。その理由は、国がそれを教えられなかったからだと思います。隣国を併合し、他国に侵出して戦火を交え、内外の無数の犠牲者を出した揚句、降伏へと追い込まれた、その歴史を未だに総括できていないからです。

 そのような中で、あの破局がなかったかのような歴史観が復活しつつあり、政権はかつて歩んだと同じ道をたどろうとしています。その矛先は、憲法に向かっています。

 筆者は、憲法の精神である「平和主義」は、戦後国民の悲願であると思っています。戦争の悲惨を体験した日本の民衆が、戦後70年にわたって支持した

                                   からこそ、今日まで平和の歯止めとして機能してきたのだと思うのです。

                                    この、世界でも類を見ない平和への意思と決意をあらわす基本精神を無視

                                   して、条文の改正や削除を論じることは愚かなことです。

                                    第9条について、誠実な議論をすることは今後避けられない課題となりまし

                                   ようが、歴史を直視せずに戦争肯定に進もうとすることは、国民の歩んだ悲惨

                                   を無意味のなものとする、国家最大の愚行となりましょう。

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花のグリーティング

 映画「サウンドオブミュージック」に出る「エーデルワイス」の歌の詞が心に浮かぶ今日この頃です。

 Edelweiss,Edelweiss every morning you greet me ..."エーデルワイス、お前は毎朝、わたしにあいさつしてくれる・・・"

 このところ、家の周りに咲く花、散歩道でであう草花が、なにかほんとうに筆者にあいさつしてくれているように感じられてなりません。毎日かれらに会っていると、その装い、たたずまいが意味もなくそうなっているなどと考えられなくなってきたのです。

 散歩ではいつも、デジカメをもっていて、道ばたの小さな花、草木の芽生えなどズームで撮るのを楽しみにしていますが、カメラを通して見つめるかれらの姿から、これは彼らのコミュニケーションではないか、と感じ始めました。

 小さな花、繊細な蔓、どれもその色、形、意匠において完ぺきな作品としか言いようがありません。またその風情がなんとも愛らしいのです。

 もちろん、彼らに人間のような知能はないでしょう。けれども、その姿は確かに、見る者に美しい何か、優しい何かを伝えています。

 この季節、かれらに会うのが日々の楽しみです。

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神の国の前進

 「人はいつになったらわかるのだろう」~Oh , when will they ever learn ?~もう半世紀も前に流行った反戦フォーク「花はどこへ行った」の一節です。

 テロ、人種間の憎しみ、国家主義の氾濫・・・先週も胸が痛むニュースが続きました。現状だけを見ていると、「行き詰まり」感だけが増幅してきます。

 しかし、福音書は、目に見えない現実をわたしたちに指し示しています。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」(イエスのことば:マタイ福音書13・31、32)。イエスは、どんな暗黒の時代の中にあっても、神の国は完成に向かって確実に進んでいると語られました。

 混乱と憎悪の渦巻く今この時も、神の国は音もなく前進しているのです。全世界に、平和と真の祝福を祈り、そのために励む無数の有名、無名の人々があります。そして、その背後には、正義と愛によって世界を導く創造者なる神の約束があるのです。

 移りゆく目の前の状況だけに目を奪われるのでなく、確かな神の国の前進を忘れないようにしたいものです。

 

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互いに愛し合うということ

 ヨハネ福音書を見ますと、イエスは弟子たちに繰り返し「お互いに愛し合いなさいよ」と諭しておられます。「お互いに仕え合うのですよ」と。くどいようにこの教えを繰り返されたのですが、その真意はどこにあったのでしょうか。

 一つの団体のメンバーがお互いのことをおもいやる、というのは常識的に考えて当然のこと、団体がしっくりと溶け合い、まとまって行くためには、当然のことと考えられます。ましてや、やがてイエスの遺志を受け継ぎ、団体をまとめてゆかなければならない弟子たちにとっては、心しなければならない大切なことであったと考えられなくはありません。

 しかし、筆者は、イエスがこのように強調されなければならなかったこと自体が、これが決して自明の、簡単なことではないことを示しているように思えてなりません。

 ねたみ、野心、確執、見解の相違、誤解、相性等々、人の集まるところ何かにつけて様々な力が働き、係わる人々は何らかの作用をこうむることになりやすくあります。イエスは、そのことを十分御承知の上で、「互いに愛し合いなさい」と敢えて繰り返しておられるのです。これは、ほおっておいて自然に成り立つ状況なのではなく、各自が心して追い求めてゆくべき事柄であることを意味します。

 人の心の根本にはわが身かわいさのエゴイズムがあります。使徒パウロの言う「肉」です。イエスの救いの力は、そこにまで及ぶものです。人間関係の問題の根源的解決はここにあります。しかしまた、現実のわたしたちは、日々変わりゆく複雑な諸条件に囲まれています。漫然としているなら、たちまち自分も周囲も見えなくなり、混乱に陥ることとなりましょう。

 祈りのうちに、イエスを仰ぎ、イエスに導かれて、愛を基とした関係を築きたいものです。

 

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チャールズ・フィニー、ウイリアム・ブース

手元にあったc.フィニーの説教集を最近読みました。また、救世軍の創立者w・ブースの生涯を山室軍平がまとめた伝記を読む機会がありました。

前者は19世紀アメリカ、後者は19世紀後半から20世紀初頭イギリスで活躍したいわゆるリバイバリストです。

 フィニーはアメリカのいわゆる第二次信仰復興を代表する説教者のひとりです。ニューヨークの弁護士でしたが、長老派の伝道者となり多くの人々に信仰の復興をもたらしました。

 ブースは10代で救われ、以後一般大衆にむかって果敢な伝道を行います。時の教会が手を付けなかった労働者や町の女性たち、酒場にあふれる人々を訪れ、語りかけます。困窮者には支援の手をさしのべます。

 両者に共通するのは、既成の教会の一部からは批評を受けつつも、大衆の一人一人に明確な福音を提示し、悔い改めを迫り、新生へと確実に導いたことです。改心した人々の証詞は周囲に及び、伝道は拡大し、社会全体を善導するまでに至りました。

 これら霊の巨人の「救霊」への不動のビジョンと明確なメッセージには、圧倒されます。翻って、現代教会の宣教への取り組みはどうか。深く考えさせられます。自らを振り返りつつ、先達に学びたいと思わされることです。

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聖書を通読する

先日、ヨハネ黙示録を読み終え、聖書の通読を完了しました。これまで何回読んだのか自分では覚えていませんが、通読はどんな時も続けてきました。きっかけは、子どもの頃、キリスト者である親が「聖書通読表」をくれたことでした。B6ほどの紙にマス目が印刷されていて、各書名と、章の数がマス目に書いてあります。1章読むごとに、該当の数字を消していくのです。ともあれ、以来続けてきたというわけです。

 聖書は膨大な書物で、それを通読することは大変ではありますが、それによって、多様な内容をもちつつ、神による救いという中心テーマを照らし出すという聖書の大きな流れに触れることができます。

 聖書を構成するそれぞれの書には、それぞれの時代背景や固有の使信があります。読み手である自分が好きな箇所もあれば、とっつきにくいものもあります。しかし全体として究極の使信を明らかにしようとしているのです。好きな書のみを呼んでいると、実は一部しかし触れていないことになります。もっと言えは゛、偏った聖書理解をもってしまうこととなります。それではいかにも残念です。それは、偏食にもたとえることができましょう。

 聖書は、人類に対する救いのメッセージを、多角的な角度で証言します。その豊かなメッセージを、汲み取りたく、この後も通読を継続していきたいと願っています。何度読んでもあきない、そして、繰り返し新しい、不思議な書物で

                                     す。

 

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わが国とキリスト教

今は亡きキリスト教史家、石原 謙氏を囲む鼎談「キリスト教と日本」を読みました。氏が亡くなられて四十年、この本は、御逝去直前の、最期の談話記録といえます。それだけに、いろいろと考えさせられました。

 ひとつは、わが国のキリスト教受容の特徴です。古来、わが国では、外来の思想、宗教を受容するという点では、目立った特徴を示してきた、と氏は指摘します。古くは、仏教が外から渡来して来ました。そして、内外関係者の布教の努力により、一応仏教は日本に受け入れられ、広く定着してきました。しかし、実体は、日本古来の祖先崇拝のころもを着せかえたお葬式の宗教となっています。それは、仏教よりずっと後になりますが、やはり外から日本にやって来たキリスト教の受容においても起こっているのではないか、という指摘です。

 日本の開国以来、諸外国からの宣教師によってキリスト教がもたらされ、やがて日本人牧師も増加して、当初は相当な勢いで布教は進んだと言われます。しかしやがて、明治政府によって「国体」思想が強調され、思想統制が徐々に進められるにつれ、教会は国体を意識し、「日本的」キリスト教ということを言うようになります。この「日本的」なものの中で、本来のキリスト教のメッセージ、聖書の示す「道」が意識的、無意識的に捨てられてしまってはいないか、教会は教会の体(てい)をなしていないのではないか、いやそもそも、日本の教会は教会あるのか、と石原氏の批評は辛辣です。しかし、これがキリスト

                                   教史の碩学、戦前戦後を見て来た教界の長老の見識となると、聞き捨てには

                                   できない気がします。

                                    日本という風土に在って、聖書固有の福音を確かに聞き取り、その福音に

                                   根差したまことの教会を模索することを忘れてはならないと思いました。

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地方の苦悩

所用で千葉県内の、ある浜の町を訪れました。長い砂浜で知られたその町は、しかしながら大部分農地で、早い田植えも終わっていて、落ち着いた農村のたたずまいを見せています。緑も豊かで、山もない平坦な地域ではありますが、小鳥のさえずりがあちこちから聞こえ、そこにいるだけで癒された気分にさせてくれます。

 しかし、町を知る知人の話を聞いて、「ああ、やっぱり」という思いを禁じることができませんでした。かつて、イワシ漁が盛んだったころ、この町も地域では最も力のある、豊かな地域であったとのことです。資産家たちは都の文人たちのパトロンとなり、今でもそのころを遺すものがあちこちにあるとのことです。

 しかし、町は昭和30年頃より、漁獲量が減り、勢いは衰えてきたというのです。もともと農業は、自家用米の作付程度であり、産業と言うにはほど遠いものでした。今では、サーフィンや、季節の浜遊びなどの観光のほか、これといったものはなく、豊かな自然とはうらはらに、「過疎」ともいうべき状況とのこと。なんとも寂しい限りです。

 考えてみると、ここの現状はここだけでなく、「地方」と呼ばれる全国の大部分の地域がまったなしで向かい合っている状況なのでしょう。なぜここまでになってしまっているのか。

 一概に論ずることはできませんが、いずれこのようになることは大分以前から

                                   分かり切っていたのに、有効な対策がなされてこなかったのではないかと言う

                                   ほかありません。国も民も、抜本的な対応を先送りし、その場しのぎの補助金

                                   行政でお茶を濁してきたのではないか。自分も含め、わが国の発想の貧困を

                                   嘆くほかありません。

                                    しかし、この国土を放置するわけにはいかないはずで、今からでも、国を挙

                                   げて取り組まなければならないでしょう。

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巧言令色少(鮮)なし仁

 孔子の論語だったでしょうか。うまい話、お世辞で相手に取り入ろうとする浅薄な人となり、そこに真実、誠実はないとします。

 為政者に求められるのは、行政手腕もさることながら、かれらを信任した国民に対する誠実さであり、そこから生まれる誠実な言葉でありましょう。「ものはいいよう」と言いますから、政治の世界では縦横に言葉を駆使する能力は欠かせないものでしょうが、そこにはおのずと限度というものがあるでしょう。真実をことさらに覆い隠したり、黒を白ということはあってはならないことです。

 ひるがえって、昨今のわが国の状況はどうなのでしょうか。筆者は、政権のリーダーが折に触れて発してきた、「法の支配」「自由と民主主義」という言葉と、政権が実際にたどっている歩みとの間の「ずれ」に違和感を感じてきました。国民の大多数が反対する、安保法制の制定に向けての昨年夏以来の進め方はは、明白に現憲法に違反するものでした。「法」の尊重、リスペクトはどこにも見られません。「法の支配」はどこにあるのでしょうか。また、「日本を取り戻す」過程で日々に増し加わっている報道への圧力は、国際的に認知されるレベルとなっています。情報の開示、報道の自由は、民主主義の不可欠の要素です。しかし、進んでいるのはまったく逆向きの歩みです。言葉の不実は極まっています。政策が行き詰まりを見せる中、焦る与党は、とりあえず大衆が喜びそうな政策をここへきて動員している風があります。溢れるのは、空疎な言葉の羅列

                                     です。こうした風潮を受けて、世の中も総じて軽薄な言葉が溢れているように

                                                                                                                  見えます。

                                     何ものも、「信」がなければ、早晩崩壊します。なんとかして、誠実な言葉が行

                                    きかうわが国となって欲しいと願うばかりです。

                                                                                    

                                    

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いじめ、または都知事たたき

 このところ、マスコミは連日、舛添東京都知事の金の問題を取り上げています。豪華外遊や公用車による別荘通い、政治資金の不適切な用い方などなど、各方面が「精査」を重ねて、都知事と「カネ」のありようを追求し、批判的な町の声を報道しています。総じて、知事に対する批判の大合唱となっています。

 このような細大漏らさぬような報道に接していると、確かに知事の金銭感覚、あるいは政治資金をめぐる脇の甘さというのはあるのかな、と思えてきます。それこそ公正な判定がなされなければならないということでしょう。

 一方、このような都知事憎し一辺倒の報道があふれていることにたいして、違和感を感じざるを得ないのは、筆者ひとりでしょうか。マスコミが総じて、たった一人の人を叩き、追い詰めようとしている図は、異様でもあります。ワイドショーも、こりずにこの問題を連日とりあげ、相当な時間を割いています。これほど各社が一つの問題で一致し、存分に報道できる話題は、久々ではないでしょうか。別の角度から見れば、報道各社は、政権への配慮から、平素ずいぶんおさえなければならない部分が多いということでしょう。こんどの問題は、ちょうどよい穴埋めとなっている感があります。

 都知事の問題もあるでしょうが、本来もっと力をいれて報道すべき題材はいくらもあるのではないでしょうか。甘利前大臣の問題、パナマ文書の問題、

                                   TPPの問題、政党による政治資金の還流の問題等々、影響力においては都

                                   知事の金問題の比ではない、日本全体にかかわる問題がなぜ、報道されな

                                   いのでしょうか。

                                   イエス・キリストの言葉に「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量

                                   る秤で量り与えられる」(マタイ福音書7:2)とあります。自らを棚に上げて安易

                                   に他人の非をあげつらうなら、やがてその尺度で自分が量られる時を迎える

                                   のです。

 

 

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憲法記念日

               記念日

 5月3日は憲法記念日で、例年護憲、改憲それぞれの立場で様々な催しが行われていますが、今年は、昨秋の安保法制の採択と3月の同法施行を受け、いろいろな意味合いで重い記念日であったと思います。

 異様であったのは、安保法制に危機感を抱き、反対する立場からの運動が一定の盛り上がりを見せていたにもかかわらず、テレビの報道がこのような動きをほとんど伝えなかった事です。むしろ、筆者が見たニュースでは、国家主義的立場から憲法改正を訴える集いの模様を詳しく伝えていました。

 昨年夏、政権が、集団的自衛権の行使を閣議決定した際、国会周辺に十万といわれる民衆が終結した時、その空撮映像をテレビニュースが流したことで、総理が「激怒」したと伝えられました。おかしなことです。これだけの国民的出来事を報道するのが当たり前であるにもかかわらず、マスコミを威嚇したのです。以後、この種のデモの報道はきわめて限定的なものになってきました。

 報道管制、自粛が目に余る現状こそ、いかに現憲法が危うくなっているかを証明しています。先ごろ訪日、調査した国連の「表現の自由」査察官は、日本の言論に関する状況を憂慮すべき段階にあると指摘しました。また、ジャーナリストの国際団体による報道の自由ランキングでは、日本は今、世界で62番目となっています。もはや、先進国とは言えない状態と言えます。

 現憲法の基本をなす平和主義は、戦争の悲惨への痛切な反省から生まれたことを忘れてはならないと思います。だからこそ、戦後70年、国民は憲法を支持し続けてきたのです。この原点をおろそかにし、安易に平和主義を投げ出すようなことはあってはならないと思います。     

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うるわし春

 新緑の散歩道を歩いていると、自然

  うるわし春よ、緑に映えて

  うたごえひびく 野に山に

 と、学生時代に歌った春の賛歌が湧き上がってきます。近年、冬の寒さが緩く、春のありがたみも半減、などと勝手に考えますが、でもこれでなかなか、この季節になるとやはり春は春だな、などと思ったりもします。

 木々の緑のバリエーションの美しさには脱帽です。道ばたの草むらも、数々の草花で溢れていまする小鳥のさえずりも多種多様で、どれだけ耳に快いことでしょうか。命のはかなさゆえに、命の輝きも増し加わるのでしょう。

 創造主への感謝があふれます。

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芽吹き

 毎年、この季節になると心が躍ります。寒かった冬も時代に遠のき、少しずつ陽気が温まってきます。すると、草木が目を覚まし、少しずつ、少しずつ、その枝に付いた芽をふくらませて来ます。

 筆者はなぜか、幼少の頃から、この早春の芽吹きを見ると、無性に心が躍ります。今年もそんな時節となりました。鉢に植えた木々の目が、成長を始めました。毎日、それを見るのが楽しくあります。朝に夕に、そして日中も、用事で外に出るたびにながめます。飽きません。

 なぜこんな風に感動するのか。自分でもわかりません。でもそれはきっと、自然の持つ偉大な生命力に触れさせられるからなのでしょうね。

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イースター

ディズニーランドが春のテーマに取り上げている「イースター」が、一般にも注目されるようになり、秋のハロウィーンに続いて、こちらも社会現象になるかとマスコミが報じています。

 この手の古い先輩が「クリスマス」でしょう。明治以後、特に第二次大戦後、キリスト降誕を祝うこの祭が、日本の社会に溶け込んできました。

 けれども、イースターもキリスト教世界では古来の祭でありながら、日本で受け入れられてこなかったのには訳があるでしょう。それは、この祭が、キリストの復活という出来事を祝う祭りで、キリスト教国ではないわが国では、さすがにクリスマスほどには受け入れ易くはなかったということが考えられます。キリストの復活、死者の復活という、思いもかけない事柄に、日本人は対応しかねたのではないでしょうか。

 初代教会の伝道者パウロは、当時の教会の発展を記した書「使徒言行録」(新約聖書所収)の中で、領主アグリッパへの弁明の中で「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じがたいとお考えになるのでしょうか。」(同書 第26章8節)と語っています。そのようにキリストの復活、それはいわゆる教祖伝説として語り伝えられている、といったものでなく、キリスト教の教理の中心として、二千年の歴史の中で事実として信じられ、伝えられてきた事柄です。

                                   ともあれ、このイースター、これからどのように受け入れられ、定着していくでし

                                   ょうか。興味深い所ではあります。

 

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自分の弱さを知る

先日、久しぶりに風邪をひきました。冬も終わりに近づき、ここにきてやられるとは思っていませんでした。けれども、独特の不快感、脱力感におそわれ、今回は特におなかの違和感がひどく、数日つらい思いをさせられました。たかが風邪、されど風邪! そんな思いを強くしました。

 こんどの風邪で、あらためて肉体の弱さということを思い知らされました。普段調子がいいときは多少の無理も押していけるような気がしていますが、微熱が出て、ちょっと力が抜けただけで、たちまち弱気になります。自分を過信してはいけないと、つくづく思わされることです。

 日頃、健康が与えられていることを感謝して過ごすとともに、謙虚に心身をいたわらなければいけないということでしょう。また、気を配っていても、いつ何時どのようなことが起こって来てもおかしくないということを念頭において、歩んでゆかなければならないのだとも思わされます。

 床についていると、夜も寝られず、休んでいてもだるさが続き、本を読む気にもなれない。なさけない数日を過ごしながら、自分の弱さに直面し、「生かされている」ということのとうとさを痛感させられたことです。

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忠実な礼拝

ある身近な教会の礼拝にご奉仕させていただく機会がありました。その教会には、以前よりお知り合いのご高齢の方がたが集っておられます。御教会は、数年前に牧師が交替されました。今回、お久しぶりのお邪魔させていただきましたが、その皆様がお元気でおられるかどうかと思いつつ楽しみに出席させていただきました。

 その日、礼拝が始まると、そこには九十代になられる方々を始め、そのご年配のみなさん、列席しておられました。静かに御席について、集いを守っておられます。やがて礼拝が終わると、昼食の御用意がありました。これらの方々も残り、他の皆さんと同じように、自己紹介してくださいました。やがて集いが終わると、言葉少なにご挨拶をされて、帰宅してゆかれました。

「いつも、礼拝でそのお背中を見るだけで、どれだけ励まされるでしょうか」と、ある役員さんがしみじみ話しておられました。

 毎週毎週ささげられる礼拝です。その積み重ねが、どんなに尊いことでしょうか。また、忠実に継続するその一回一回の礼拝が、信仰生涯にとってどんなに大切なことでしょうか。教会は、こうした礼拝者たちによって、生かされているのですね。

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陽ざしのありがたさ

少し前までぐずついた天気の日が続きました。日が出ないとその分寒さが増します。こんな日が何日もあると、なんだか気持の方も沈んでくるように感じられます。

 このところやっと、「晴天」と呼べるお天気がやってきましたね。澄んだ青空、明るい光、やっぱりいいですね。心も晴れて明るくなります。陽ざしがあるとこうも違うかなあと、あらためて感じさせられます。

 木々が輝きます。小鳥たちの歌も心なしか元気一般です。

 「北風と太陽」ではありませんが、陽ざしには不思議な力があります。神さまの恵みに感謝。

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継続の恵み

二俣川駅前の解体工事、基礎工事が進んでいます。近々通行帯も変更になるようです。見るたびに変化しいてく現場の様子に、感心させられています。 一日で一気に大きく進むのではありませんが、日々こつこつと工程がこなされています。

 どんな大きな計画も、日々の継続で着実に進捗を見せてくれます。人生も日々の積み重ね、課題への継続的取り組みがどれほどたいせつなことかと思わされます。信仰生活もそうです。日々の祈り、聖書の愛読、集いへの出席が継続されてこそ、たしかな実が結ばれることができます。一足飛びで「聖徒」ができあがるのではありません。

 おたがい、一足一足、一日一日をおろそかにせず、成熟に向かって、主の栄光の日に向かって、励んでまいりましょう。

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民力の劣化

もともと後発の先進国であるわが国では、先の大戦後、諸分野で多少なりとも近代化が進んではいたと思っていました。けれども、昨今、この国の資質の低下が露呈していると思わざるを得ない状況があります。

 あるジャーナリスト団体の発表では、報道の透明性のランクでは、わが国は世界で61位とのこと、後進国です。マスコミ関係者の使命感は低下し、サラリーマン化しています。

 警察官の犯罪の多さに絶句します。政治家も、品位や教養、見識とは縁が無くなって来ていると感じます。一般国民も、総じて目先の享楽、利益優先のありようです。

 確かにこの国の民力の劣化はいちじるしく、胸が痛む状況です。

 

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あからさまな国家エゴ

かつて、中国の天安門で、民主化運動家たちが示威行動をした時、中国政府は戦車を動員し、民衆に銃を向け粉砕しました。今、中東のシリアにおいて内戦が行われていますが、ロシア軍が、政権維持のために自国民に武器を向けて恥じない政府軍を支援し、多くの市民がその空爆によって命を落としていると報道されています。

 その国の国益(統治者の権益?)の為に、人道無視のなりふり構わぬふるまいが世界のあちこちに見られ、ことに大国と言われる国々がそれに係わっていて、本当に遺憾の一言です。以前はそれでも、言い訳がましくこのようなことがなされていたように思いますが、現行は恥ずかしげもなく、といった風に見えます。まことに悪い時代となってると言わざるを得ません。目が離せません。

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対話とディベート

 あるテーマをめぐって見をかわす、という点では対話とディベート(討論、論争)は同じカテゴリーに属していると言えましょう。けれども、意見を交わす姿勢という角度から見ると、両者は対極にあります。対話は、お互いにちがう意見を出し合い、より優れた、より高い結論を得ようとします。一方ディベートは、異なる考えをぶつけ合い、お互いに自分の方が優れていることを認めさせ、相手を屈服させようと務めます。その点では言葉による戦いとも言えます。

 対話と論争、社会生活では場面によってどちらも必要とされるでしょう。一つの共通の課題について、よりよい結論を出すためには、様々な意見が提出され、いろいろな角度から課題を検討して最善の方向を共に見つけていくことが求められます。そのためには、それぞれが自分の考えに固執せず、心を広くして他に耳を傾ける姿勢が必要です。それが対話(ダイアログ)の精神です。

 利害を異にする立場が対立する場合はどうでしょうか。この場合は、対立する相手の優位に立って、自分の利益を確保することをめざすこととなります。ここに言葉の戦い、論争、討論が生まれます。けれども、これも手放しで自分の利益のみに固執することはできないでしょう。なぜなら、どのような意見も、普遍的な正当性がなければ、いつの日か破たんを迎えることになるからです。その意味では、「対話」も「ディベート」も、真実というものに対する開かれた心を要求するものといわなければなりません。

 今、アメリカの大統領選挙に向けての動きが始まり、盛んに報道されています。世界全体に少なからぬ影響をもつ国だけに、わが国を含め全世界が注目しています。自他共に認める民主主義の国(と言われる)だけに、選挙運動の中心にある「討論」の帰趨に注目させられます。また、わが国では通常国会のさ中で、予算委員会が行われています。質疑と答弁の様子が報道されていますが、いろいろ考えさせられます。関係者の発言に、わが国の今後に向けての、建設的意見交換をする姿勢がみられるでしょうか。残念ながら、硬直した、一方通行の意見のぶつけ合いという印象がぬぐえません。ことに、政権を持つものこそ、謙虚に他の意見に耳を傾けなければならないのに、現状はとてもそうなってはいません。

 理を尽くして最善、次善を求めてゆく建設的な精神風土が、わが国にも培われて行ってほしいと願ってやまないものです。

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