わが国とキリスト教

今は亡きキリスト教史家、石原 謙氏を囲む鼎談「キリスト教と日本」を読みました。氏が亡くなられて四十年、この本は、御逝去直前の、最期の談話記録といえます。それだけに、いろいろと考えさせられました。

 ひとつは、わが国のキリスト教受容の特徴です。古来、わが国では、外来の思想、宗教を受容するという点では、目立った特徴を示してきた、と氏は指摘します。古くは、仏教が外から渡来して来ました。そして、内外関係者の布教の努力により、一応仏教は日本に受け入れられ、広く定着してきました。しかし、実体は、日本古来の祖先崇拝のころもを着せかえたお葬式の宗教となっています。それは、仏教よりずっと後になりますが、やはり外から日本にやって来たキリスト教の受容においても起こっているのではないか、という指摘です。

 日本の開国以来、諸外国からの宣教師によってキリスト教がもたらされ、やがて日本人牧師も増加して、当初は相当な勢いで布教は進んだと言われます。しかしやがて、明治政府によって「国体」思想が強調され、思想統制が徐々に進められるにつれ、教会は国体を意識し、「日本的」キリスト教ということを言うようになります。この「日本的」なものの中で、本来のキリスト教のメッセージ、聖書の示す「道」が意識的、無意識的に捨てられてしまってはいないか、教会は教会の体(てい)をなしていないのではないか、いやそもそも、日本の教会は教会あるのか、と石原氏の批評は辛辣です。しかし、これがキリスト

                                   教史の碩学、戦前戦後を見て来た教界の長老の見識となると、聞き捨てには

                                   できない気がします。

                                    日本という風土に在って、聖書固有の福音を確かに聞き取り、その福音に

                                   根差したまことの教会を模索することを忘れてはならないと思いました。