安息日の主の癒し
ゼカリヤ書13:1、*ヨハネによる福音書5:1~18
ユダヤ人の祭りの間、イエスはエルサレムに滞在されました。
癒しで知られたベトザタの池の廻りの回廊に横たわる38年間も病に苦しんでいた人がいました。この人は病気の苦しみ、自らに関わる罪、さらに誰も彼を心に留めてくれない孤独感の中にいました。
主は彼のことを知り、「良くなりたいのか」と声をかけられました。彼は主に、誰も自分に手を貸してくれないことを告げました。すると主は彼に「起きて、床を担いで歩きなさい」と言われました。その日は安息日でした。ユダヤ人たちはそのことで、モーセに背く者として主イエスを迫害しました。さらに主が、神を「私の父」と呼んでご自分を神と等しい者としたことで、主を殺そうとし始めました。
この個所は主イエスがどのような方かを示しています。
1.主は私たちを知り、心にかけてくださる方
主は、ご自身に向き合う者に、「良くなりたいのか」と言われます。
2.主は安息日の主
聖日は主のみ心が行われるべき日です。
3.イエス・キリストは神と等しいお方
「父の懐にいる独り子である神、この方が神を示された。」(ヨハネ1:18)
主は今も「私に何をしてほしいのか」と問うておられます。
証し者の原点
詩編73:23-28 *ヨハネ3:22ー30
洗礼者ヨハネは。福音書によると、イエスの母マリアの親戚筋にあたり、罪の悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。洗礼は古来、水で清める儀式として知られていました。ヨハネはやがて来られるメシア(救い主)を迎える道備えとして遣わされたのです。
ヨハネは主イエスをメシアとして示し、証しをしました。まことの聖めです。人々の罪を贖い、聖霊によるバプテスマを授けることのできるのは、イエス・キリストのみです。
人々はメシアの前に自分の罪を認める悔い改めが必要だったのです。ヨハネは主イエスに出会って言いました。「私は喜びで満たされている。あの方は栄え、私は衰える。」(3:29)と。 ヨハネの証し人としての原点はここにありました。
⑴喜びで満たされている
私たちは、救われた者としての喜びに満たされているでしょうか。信仰の原点に立たせていただきましょう。
「ただ聖霊があなたがtに降る時、あなたがは力を受け、主の証人とる。」(使徒1:8)
⑵「あの方は必ず栄え」
私たちによって、私たち自身ではなく、キリストがあがめられているでしょうか。
⑶「私は衰える」
自分の栄光ではなく、キリスト…です。私たちもヨハネの如く、キリストを指し示すものとしてこの世に遣わされているのです。
2024.3.10
人生の解放と安息
レビ記25:1-13、コリントの信徒への手紙二6:1-2
心の豊かさでなく、地位や富の優劣を競うありようは、健全とは言えません。ここまでで聖なる神に相応しい民のあり方を示した本書(レビ記)は、ここで、神は安息と解放の神であることを告げます。
⑴富を際限なく求めることの停止 1~7節
「あなたがたは六年の間、畑に種を蒔き、六年の間、ぶどう畑を剪定して、その産物を収穫することができる。しかし七年目には、地に完全な安息、主の安息がなければならない。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑を剪定してはならない。」(3,4) ここには、大地を休ませること、飽くことなき労働の手を休めるべきこと、すべては神のものであることを認べきことが命じられています。
⑵解放し、安息を約束する神 8~13節
「五十年目の年を聖別し、その地のすべての住民に解放を宣言しなさい。それはあなたがたのためのヨベルのとしである。あなたがたはそれぞれ自分の所有に地に帰ることができる。おのおのその氏族のもとに帰ることができる。」 (10)
ここには、財産、雇用関係、奴隷所有権の停止と清算、解放が規定されています。神は解放と安息の神なのです。この解放の年はヨベルの年と呼ばれ、何らかの事情で奴隷や奉公人となっていた者たちは解放されて、自分の郷里、自分の親族のもと、自分の居場所に帰ることが許されたのです。主イエスは、ご自分の到来によって、真の解放の時が始まったことを宣言するとともに、人々をあらゆる悲惨と苦悩から解放される救い主であられることを宣言されました。
⑶私たちの解放と安息 10,13節
「このヨベルの年には、それぞれ自分の所有の地に帰ることができる。」(13)
使徒パウロは言いました。「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。」(コリント二6:2) 私たちは、人知れぬ様々な重荷と苦悩を背負っているかもしれません。しかしキリストは、私たちをすべてのくびきから解放されるお方です。果てしない競争や、行き詰まった人間関係に疲れ果てた魂に、完全な安息と安らぎを約束されるお方です。
2024.2.18
悪習からの分離
レビ記20:22-24;エフェソの信徒への手紙4:17-32
この世界は、キリスト者の姿を通して神を見ます。レビ記はその意味で、世にある主の民のあり方を問います。
レビ記の本章は、主の民が聖なる神に相応しく、生活のすべての面で清くあれと命じます。それによって民は祝福されるのだ、と。
⑴神のものとされた民
私たちは、神の恵みにより、キリストによって罪赦され、神の子とされました。それは、私たちが神のものとされ、神の栄光を現すためです。
⑵神なき世の風習に染まないこと
レビ記は、偶像礼拝、性をめぐる放縦、霊媒などの習俗にけじめをつけることを求めます。エフェソ書では、新約時代の世の不道徳や金銭欲、汚れた言葉との分離を強く勧めます。聖霊の力によって、私たちは清い歩みをさせていただくことができるのです。
⑶悪習からの分離」
使徒パウロは、このような生活の基本を、ローマの信徒への手紙12:1、2に記します。「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理にかなった礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい」と。
イエス・キリストによって罪から解放された者として、真心をもって神にお従いさせていただこうではありませんか。 2024.2.4
神のために新しく造られる
イザヤ書43:1-7
本章はバビロン捕囚に時代(およそBC500年代)を背景としています。イスラエルの民自身の罪ゆえにもたらされたバビロン捕囚ですが。神は試みの中にある民に「しかし」(43:1)と言って希望のメッセージを伝えます。
⑴あなたを「わたしのもの」と呼んでくださる神
神は民に「あなたは私のもの」と言われます。「私があなたを贖った」とあります。神ご自身が民のために身代金、代価を払ったと言うのです。神はイエス・キリストを人々の罪の贖いとされました。それでキリストの贖いを信じる者は神のものなのです。
⑵あなたを「価値ある者」として見てくださる神
人は誰かに認められたいものです。しかし、誰でもない神ご自身が、「あなたは私の目に貴く、重んじられる」と言ってくださるのです。
⑶あなたを神の栄光のために新しく造られる神
「あなたは価値あるものだ」と言われる神は、私たちを用いてくださいます。私たちは自分が輝いているように思いますが、輝くのは神ご自身であって、私たちではありません。神は「私の栄光のために」と言われます。神は私たちをご自分の栄光のために形造ってくださるのです。私たちの欠けや弱さを新しいものに造り変え、栄光を現す者にしてくださるのです。「神が放つキリストの香り」(コリント二2:14)とされるのです。
2024.1.28
アザゼルの山羊
レビ記16:29-34 ヘブライ人への手紙9:11-14
荒野の彷徨の頃、モーセの兄、アロンの二人の子らは、規定の香を焚いたことで主の怒りを買い、死に至りました。この悲劇を繰り返さないために、主はその罪の贖いと清めの儀式を定められました。これが『贖いの日』の期限です。罪は贖われなければならないのです。
⑴「贖い」ということ 罪の赦しのためには代償が必要であることを聖書は告げます。モーセの掟においては動物のいけにえの血が求められました。命の代償によって罪は清められたのです。罪の赦しは、注がれた血と命という裏付けによって成り立ったのです。
⑵キリストの贖い ヘブライ書は、旧約の掟は不完全なもので、人の心を変える力を持たないとし、キリストが完全ないけにえとしてご自身をささげてくださったことにより私たちの罪の代償は支払われ、人の内面が全く清められる道が開かれたと告げます。
⑶アザゼルの山羊 レビ記には民の罪を負った山羊が荒れ地(アザゼル)に追いやられたことを語ります。これは主イエスが人類の罪を負い、エルサレム 郊外の死刑場に引き出され、私たちの罪のために死なれたことのひながたです。主イエスこそ罪の赦しを与え、本当の平安を与えたもうお方です。
2024.1.7
「未来への備え」
*ペトロの手紙二3・14~18 創世記6・9~22
昨今の諸情勢は、厳しい近来を予想させます。心の備えが必要です。
⑴主の日を待ち望む者
ペトロ二書は、今ある世界の崩壊、滅亡をもたらす「主の日」の到来を予見します。「その日には、天は燃え尽き、自然界の諸要素は火で溶け去ってしまいます。」(3章12) しかし同時に、、来るべき新天新地の希望をキリスト者に示します。「私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。」(13) 私たちはどこまでイエス・むキリストの再臨を信じ、待ち望んでいるでしょうか。
⑵「主の日」に備える者
著者が強調するように、イエス・キリストご自身が終末の「主の日」の到来を預言されたとすれば、そして、私たちがその日を実感をもって受け取れるとすれば、それにふさわしい備えをしなければならないでしょう。著者は勧めます。「これらのことを待ち望みながら、染みも傷もなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」と(14)別な言葉で言えば「聖なる敬虔な生活」(11)と言えましょう。 花嫁が身を整えて花婿を迎えるように、私たちもイエス・キリストの恵みによって日々清められ、その再臨を待ち望みたいと思います。
2023.12.17
「主を知る恵み」
*ペトロの手紙二1・1~11 ホセア6・1~6
この手紙は、最後の部分に挨拶の言葉がなく、全体としてキリストにあって救われた人々へのメッセージになっており、主イエスを知ることの大切さと、知ることによって得られる恵みを語っています。
⑴主イエスを「知ること」
主イエスは事実この世に来てくださった。単なる知識としそれを知るのではなく、キリスト御自身の人格を通して知ることです。この手紙には、「神であるイエス・キリスト」とあります。主イエス・キリストを知ることは、神を知ることです。そして「知る」とは、神なるキリストとの交わりによるのです。
⑵何を知るのか
『神のなさったこと』とあります。それは、
➀命と敬虔に係わる全てのものを与えてくださったこと。
➁栄光と力ある顕現で私たちを招き、召してくださったこと(参照ローマの信徒への手紙2・10以下「異邦人にも及
ぶ救い」)。
➂尊く大いなる約束を与えてくださったこと ⅰ世の腐敗を免れ ⅱ神の本性にあずかる者とされることです。
⑶力を尽くして「知る」ことを求める
神の約束に対して「あなたがたは、だから、求めなさい。」と著者は勧めます。「信仰、徳、知識、節制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛」を求め続けなさいと。神に求めるなら、これら必要なものを与えられ、実を結ぶ者、主を知る者となるのです、と。
2023.11.12
「復活の希望」 *テサロニケの信徒への手紙一4・13~18
聖書の言う永遠の命は、イエス・キリストの復活に根拠を置く、個人的、具体的な希望です。
⑴イエス・キリストの復活
ルカによる福音書24・1~5には、イエスが葬られた墓を訪ねた女性たちに、天使が、「なぜ、生きておられる方をし者の中に捜すのか」と語ったことが記されています。復活は弟子たちの目の前の現実となりました。イエスは死を打ち破って彼らの前に現れました。
⑵キリストを信じる者の希望
コリントの信徒への手紙一には、キリスト者の復活について「私たちは皆、(復活の体に)変えられます」(15・50~55)と言われています。イエスが現実に復活されたように、信じる者たちも復活するというのです。死は終わりではありません。
⑶イエスの再臨とイエスを信じて召された人々の復活
コロサイの信徒への手紙3・1~4には、イエスの再臨にあたって、すべてのキリスト者は(復活して)キリストと共に現れるのだと言われています。
召天者を記念するとは、召された人々の単なる過去の思い出でも、将来への漠然とした願いでもありません。イエスが復活したように、事実起こることを確認することです。その時、私たちはすでに世を去った人々と、顔と顔を合わせ、喜び合うこととなるのです。
すでに天に召された人々の信仰の生涯を思い起こし、その信仰の歩みに続きたく思います。
2023.11.5
「宗教改革の原理」 詩編31:2-9 ガラテヤの信徒への手紙2:11-14
改革で一番大切なものは何だったでしょうか。
⑴ルッターが残したもの
青年時代のある出来事をきっかけに修道院入りしたルッターでした。修道院の規則に従って厳格な生活を送ったルッターでしたが、「不安な良心を持った罪びと」との意識がいつもありました。
大学で聖書を講じる中で「神の義」ということに目を向けるようになりました。彼は、罪びとを罰する義(正義)の神を愛することができませんでい。やがて講義が詩編31:2に来た時、「あなたの義によって私を解放してください」との言葉に出会い、衝撃を受けます。他の箇所でも同じ言葉に出会い、「神の義」とはキリストのことであると悟りました。神の義は人間の行いや努力で得られるものではなく、キリストを通して与えられる神からの贈り物であったのです。
⑵パウロの戦い
パウロの時代、ユダヤ主義者は割礼などの外面的な掟を守ることを力説しました。しかしパウロは、私たちは私たちのすべての罪を担って十字架にかかってくださった主イエス・キリストをわが救い主と信じ、受け入れることによってのみ救われると説きました。(ガラテヤ1:16)
⑶宗教改革の原理 イエス・キリストを信じる信仰により、恵みによって義とされるということが宗教改革の最も大切な原理です。 2023.10.29
「新しく造られた者」 コリントの神への手紙二5・16~6・2 エゼキエル書36・25~27
聖書は、保田氏たち自身が一新されというグッド・ニュースを伝えてくれています。
この手紙で使徒パウロは、彼が生かされている福音、そしてその福音を宣べ伝える宣教の使命への召しを語ります。
⑴パウロの福音とは何か、それは新しい創造 16、17節
古い(最初の)創造は創世記1、2章に見られます。神は愛のゆえに世界と人間を創造されました。しかし、人間は神の思いに背き、信頼を裏切り、神から迷い出てしまいました。与えられた自由を誤用し、神よりも自分を追求する者となりました。
しかし神は、人間がご自身のもとに立ち返ってくることを待ち続けられます。
⑵パウロに与えられた召命 18、19節
神は御自分の民の育成を通して世界を救おうとされましたが、逆に人間の限界が露呈してしまいました。そこで神は、新しい創造により人間を造り変えることを約束されました。それはイエス・キリストによって実現しました。神はキリストを通して和解の手を差し伸べてくださったのです。この業に仕えるためパウロは召されました。
⑶切なる呼びかけ 20節
パウロは呼びかけます。あなたは神との平和を得ているか。神との和解を受け入れなさい、と。
2023.10.15
「独りでも満たされます」 ヨハネによる福音書4・1~26
一人の、偏見と恐れに囚われていた女性が、心の底から満たされ、生かされた出来事に注目します。
ユダヤからガリラヤに向かうイエスは、日頃ユダヤ人とは反目の仲であるサマリヤの地を通りました。渇きを覚えたイエスは、井戸のそばで、水を汲みに来たサマリヤの女性に出会いました。イエスはこの人に「水を飲ませてください」と頼みました。そこにはサマリヤの地への偏見も、女性への偏見もありませんでした。
◎生ける水を与えるイエス その井戸の水はたまり水でしたが、イエスは女性に、この水を飲んでもまた渇くが、御自身が与える水は生ける水であり、「決して渇かない」命の水であると告げました。女性は、その水をイエスに願い求めました。
◎本当の愛を必要としていた女性 命の水を求める女性にイエスは、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言いました。実は女性は、過去五人の夫を持ち、今一緒にいるのは夫ではありませんでした。事情がどのようなものであったにせよ、この女性は、裏切ることのない本当の愛に飢え渇いていたのではないでしょうか。
◎「メシアはこの私である」 この女性のすべてを見通していたイエスが、「私を信じなさい。今がその時だ」と語りかけた時、女性は約束されたメシアであるイエスを信じました。そして罪赦される喜び、裏切ることのない真の愛、命の水をいただきました。
渇くことのない命の水、それはイエスの十字架と復活の贖いの業が完成されたあかつきに注がれた聖霊のことです。聖霊は乾いた心を癒し、赦しを与え、真実な愛を求める心を潤すのです。
私たちのために十字架にかかり、救いを成し遂げてくださったイエス・キリストを信じ、あなたも溢れる命をいただきませんか。 2023.10.1特別伝道礼拝 深谷美歌子先生
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