対話とディベート

 あるテーマをめぐって見をかわす、という点では対話とディベート(討論、論争)は同じカテゴリーに属していると言えましょう。けれども、意見を交わす姿勢という角度から見ると、両者は対極にあります。対話は、お互いにちがう意見を出し合い、より優れた、より高い結論を得ようとします。一方ディベートは、異なる考えをぶつけ合い、お互いに自分の方が優れていることを認めさせ、相手を屈服させようと務めます。その点では言葉による戦いとも言えます。

 対話と論争、社会生活では場面によってどちらも必要とされるでしょう。一つの共通の課題について、よりよい結論を出すためには、様々な意見が提出され、いろいろな角度から課題を検討して最善の方向を共に見つけていくことが求められます。そのためには、それぞれが自分の考えに固執せず、心を広くして他に耳を傾ける姿勢が必要です。それが対話(ダイアログ)の精神です。

 利害を異にする立場が対立する場合はどうでしょうか。この場合は、対立する相手の優位に立って、自分の利益を確保することをめざすこととなります。ここに言葉の戦い、論争、討論が生まれます。けれども、これも手放しで自分の利益のみに固執することはできないでしょう。なぜなら、どのような意見も、普遍的な正当性がなければ、いつの日か破たんを迎えることになるからです。その意味では、「対話」も「ディベート」も、真実というものに対する開かれた心を要求するものといわなければなりません。

 今、アメリカの大統領選挙に向けての動きが始まり、盛んに報道されています。世界全体に少なからぬ影響をもつ国だけに、わが国を含め全世界が注目しています。自他共に認める民主主義の国(と言われる)だけに、選挙運動の中心にある「討論」の帰趨に注目させられます。また、わが国では通常国会のさ中で、予算委員会が行われています。質疑と答弁の様子が報道されていますが、いろいろ考えさせられます。関係者の発言に、わが国の今後に向けての、建設的意見交換をする姿勢がみられるでしょうか。残念ながら、硬直した、一方通行の意見のぶつけ合いという印象がぬぐえません。ことに、政権を持つものこそ、謙虚に他の意見に耳を傾けなければならないのに、現状はとてもそうなってはいません。

 理を尽くして最善、次善を求めてゆく建設的な精神風土が、わが国にも培われて行ってほしいと願ってやまないものです。