聖書を通読する

先日、ヨハネ黙示録を読み終え、聖書の通読を完了しました。これまで何回読んだのか自分では覚えていませんが、通読はどんな時も続けてきました。きっかけは、子どもの頃、キリスト者である親が「聖書通読表」をくれたことでした。B6ほどの紙にマス目が印刷されていて、各書名と、章の数がマス目に書いてあります。1章読むごとに、該当の数字を消していくのです。ともあれ、以来続けてきたというわけです。

 聖書は膨大な書物で、それを通読することは大変ではありますが、それによって、多様な内容をもちつつ、神による救いという中心テーマを照らし出すという聖書の大きな流れに触れることができます。

 聖書を構成するそれぞれの書には、それぞれの時代背景や固有の使信があります。読み手である自分が好きな箇所もあれば、とっつきにくいものもあります。しかし全体として究極の使信を明らかにしようとしているのです。好きな書のみを呼んでいると、実は一部しかし触れていないことになります。もっと言えは゛、偏った聖書理解をもってしまうこととなります。それではいかにも残念です。それは、偏食にもたとえることができましょう。

 聖書は、人類に対する救いのメッセージを、多角的な角度で証言します。その豊かなメッセージを、汲み取りたく、この後も通読を継続していきたいと願っています。何度読んでもあきない、そして、繰り返し新しい、不思議な書物で

                                     す。