互いに愛し合うということ

 ヨハネ福音書を見ますと、イエスは弟子たちに繰り返し「お互いに愛し合いなさいよ」と諭しておられます。「お互いに仕え合うのですよ」と。くどいようにこの教えを繰り返されたのですが、その真意はどこにあったのでしょうか。

 一つの団体のメンバーがお互いのことをおもいやる、というのは常識的に考えて当然のこと、団体がしっくりと溶け合い、まとまって行くためには、当然のことと考えられます。ましてや、やがてイエスの遺志を受け継ぎ、団体をまとめてゆかなければならない弟子たちにとっては、心しなければならない大切なことであったと考えられなくはありません。

 しかし、筆者は、イエスがこのように強調されなければならなかったこと自体が、これが決して自明の、簡単なことではないことを示しているように思えてなりません。

 ねたみ、野心、確執、見解の相違、誤解、相性等々、人の集まるところ何かにつけて様々な力が働き、係わる人々は何らかの作用をこうむることになりやすくあります。イエスは、そのことを十分御承知の上で、「互いに愛し合いなさい」と敢えて繰り返しておられるのです。これは、ほおっておいて自然に成り立つ状況なのではなく、各自が心して追い求めてゆくべき事柄であることを意味します。

 人の心の根本にはわが身かわいさのエゴイズムがあります。使徒パウロの言う「肉」です。イエスの救いの力は、そこにまで及ぶものです。人間関係の問題の根源的解決はここにあります。しかしまた、現実のわたしたちは、日々変わりゆく複雑な諸条件に囲まれています。漫然としているなら、たちまち自分も周囲も見えなくなり、混乱に陥ることとなりましょう。

 祈りのうちに、イエスを仰ぎ、イエスに導かれて、愛を基とした関係を築きたいものです。