時代に対する責任

 わが家の子供が小学生の頃、ある担任の先生と親しくおつきあいをさせて頂いていました。ある時おしゃべりの話題が「日の丸」「君が代」のことに及びました。筆者はかねてより、教育の現場でことさらに「愛国心」の発揚をめざす政治の動きに対して疑問を抱いていますが、その時もそんなお話をしたと思います。その時先生は、「でも、わたし公務員ですからね」と言って話題を閉じられました。問題の所在はともかく、立場上関われない、生活があるというお気持ちだったのでしょう。

 あれからもうずいぶん経ちましたが、今この国では信じられないほどに情報の管理が進んでいるように見えます。総理官邸を恐れてマスコミが真実を伝えにくくなっています。そんな中、最近ある公共放送の職員が「わたしもサラリーマンですから」と言ったと耳にはさみました。それで、あの担任の先生の言葉を思い出すことにもなりました。

 いろんな立場の人々が、この国のどこかがおかしい、と思いながらも、「生活があるから」とつぶやきます。そのとおりでしょう。よくわかります。それでもです、七十数年前の失敗を同じように再現してしまってよいのだろうかと思われてならないのです。わたしたちひとり一人が「生活があるから」と隠れてしまうことで果たして日本の歴史に対して、日本の将来、子や孫に対して責任をとることができるのかと思わされるのです。あの苦い敗戦から何を学んだのか、それをどう生かすのか、お互いが問われていると思います。