「知識」と「知」

 中学生時代、何かの都合で不在の校長に代わって朝礼に立った教頭の言葉が耳に残っています。教頭は「トピック的知識」ということをとりあげ、真の「知」と比べながら、ともすると浅薄なトピック的知識で満足しようとする世の風潮の危うさを語っていたと思います。

 東大経済学部で教鞭をとり、学生の健全な成長に意を用いた、広い意味でリベラルな教育者であった河合栄治郎(昭和19年没)は、その著「学生に与う」のなかでこう言っています。古来、わが国では、「知」とは「知識」を意味し、教育とは「知識」を蓄えさせる営みと考えられてきた。古くは漢書や漢字の暗記(どれだけ理解したかは余り問題ではなかった節があるという)、近現代では西洋の知見の輸入と暗記がそれに取って代わった、というわけです。西洋の伝統では、教育とは人間形成とは切り離せないものとされ、知識の継承もさることながら、自分で考え、判断する能力の育成が教育と考えられています。ところが、わが国では、そういういきさつで、人間形成と知育とが切り離されてしまい、知識偏重という結果となっているのではないかとのこと。お国柄では済まない、深刻なゆがみが定着しているように思われます。

 自分で考えぬき、判断する人の育成は、根強い学歴社会の中できわめて困難な状況といえましょう。さらに、今なお、あの敗戦にも拘らず、教育を統制し、政府の要望に従順な人間を育成しようとする風潮の中で、ますます困難となっています。

 こうした空気では、子どもたち自身が疲れ、病み、崩れて行くのではないか。なんとか、この窒息状況を切り開くことはできないか、心よりそれを願うばかりです。