山が嗤(わら)う

 「先生、山が嗤うって聞いたことあります? 山が嗤う! おもしろいよねっ。」なべさんと最初で最後の散策をしたとき、わたしに話してくれました。これから山々が新芽で彩られ始めるころでした。それからまもなく、彼は亡くなりました。今からおよそ15年ほどまえのことです。

 わたしがお知り合いになったころ、なべさんは、酒びたりの毎日を送っておられました。お訪ねすると、部屋の床には「大五郎」の空のボトルが転がっていたりしました。

彼の話によれば、元気なころは彼を慕って若い衆が大勢集まったそうです。組を起こしてほしいとも言われたそうです。北海道を旅行することが大好きで、よく数人の若い衆を連れて出かけたと言っていました。お気に入りの、宿から撮った朝景色の写真をくれました。

 「おれ、死にたいんですよ。どうしたらいいんです?」これが私たちが知り合うきっかけになった彼からの電話でした。その頃、わたしたち家族は、旭区内で開拓伝道をするために、公営団地で暮らし始めていました。アルバイトから帰ると、家族からそんな電話があったことを知らされたのでした。わたしたちの配ったチラシを見て電話をくれたのです。驚いて早速お訪ねしたのがお付き合いの始まりです。

 タクシーのお仕事で無茶をして身体を壊し、在宅の日々を送っておられたのです。お訪ねすると、「よお、先生」と言って迎えてくれ、いろんなことを話してくれました。「俺って変な奴なんですよ。」というのが口癖でした。「虫を殺すのが嫌なんですよ。蚊でもアリでも、小さいけど一生懸命生きてる。若い衆が蚊を叩くと怒鳴るんですよ。道を歩いていてアリがいると、よけようとして足を挫くんですよ。」

 身体に悪いとわかっていましたが、お酒をやめることはありませんでした。そんな中から、時にはわたしを近所のファミレスに誘ってくれたり、買い物のおつりの1円玉、5円玉をとっておいて、「先生のとこ、教会堂を造らなくちゃいけないんでしょ。その足しにしてくださいよ。」とわたしてくれたりしたのでした。こうしたお付き合いが1、2年続いたでしょうか。

 ある時、なべさんにとっては裏庭のような地元、二俣川の町を散策することになりました。杖をついて、あちらの路地からこちらの坂道と、わたしを案内するように歩いてくれました。山が嗤うころだったと思います。

 以来、この季節になると必ず、なべさんのことを思い出すのです。わたしたちがこの地で最初に出合った方です。