マインドコントロール

 安部総理大臣は、20日の衆議院予算委員会で、戦後の教育環境は占領政策にもとづくもので、自民党さえ手をつけられなかったとし、その状況を「マインドコントロール」であったと言明しました。これには驚きを禁じ得ませんでした。

 マインドコントロールということばは、以前霊感商法や合同結婚式等で「統一協(教)会」がマスコミで騒がれた頃よく耳にしました。その正確な定義はなかなか難しいようですが、一定の暗示を与え、その影響のもとに、本人が十分自覚しないままに、誘導者があらかじめ設定した信念や行動に誘導してゆく手法といえましょう。主として、カルト教団とのかかわりで取り上げられてきた用語です。

 阿部氏は、戦後教育はマインドコントロールのもとにあった、と国会で言明しました。戦後といえば、今年で69年です。敗戦から約70年の日本の教育は、アメリカによるマインドコントロールであったという時、氏は何を言おうとしているのでしょうか。教育が、超国家主義の大日本帝国が管理する皇国教育から、国民の手に委ねられるようになった事なのでしょうか。天皇のためにいさぎよく死ぬ人間を養成する「教育勅語」による教育が奪われたことなのでしょうか。

 ともあれ、わが国は、戦後70年、敗戦の現実と悲惨から学び、新しい歩みを決意して歩んできました。とまどいも、試行錯誤もあったでしょう。しかし、あの暗い時代を繰り返してはいけないとの思いゆえに、70年戦後憲法、教育基本法をよしとしてきたのではないでしょうか。マインドコントロールなどとは次元の異なる重い選択です。今度のマインドコントロール発言は、そうした無数の国民の血であがなった悲願をまっこうから否定し、嘲笑するものです。アメリカを揶揄しているのではありません。日本の人々を辱めているのです。

 わたしたちは、近隣の独裁的国家で行われる軍隊行進や、国営放送の大仰な言葉遣いで体制礼賛をするアナウンサーをみて苦笑します。しかし、本当は笑う資格はありません。かつて日本も同じだったのですから。しかし、阿部氏の「戦後レジームからの脱却」が、戦前戦中の国家体制へのノスタルジーを意味するというのなら、ますますもって笑うことはできないでしょう。