戦争の責任

          山下公園で海を望む(本文と関係はありません)
          山下公園で海を望む(本文と関係はありません)

 今年も終戦記念日を迎えました。それにちなんで、いろいろな番組や報道がされていました。その中で、筆者には、いくつかの番組で、戦争の記憶の継承というテーマが取り上げられていたのが印象的でした。たしかに、戦争世代がきわめて少数となっている現実を思うとそのとおりだと思われました。番組で紹介される語り部たちのお話を注意深く聞いていると、克明な戦争体験の証言とともに、その結論に注目させられました。この方はお話の終わりに、何を訴えられるのかと。大部分の方が、戦争や核兵器の悲惨をお話になった後、戦争は余りに悲惨であること、この悲惨を繰り返してはいけないという趣旨の言葉で証言を閉じておられました。

 生の証言は、戦争の現実を伝える上で本当に大切だと思わされました。そして、それを体験された方々としては、これを繰り返してはいけないというのは、掛け値なしの訴えであることが知られました。しかし、このようなお話を聞きながら、筆者は一つのことを考えさせられていました。それは、生の証言を継承して戦争の現実を伝えることは一つのことだけれども、悲惨を知るというところで留まってしまってはいけないのではないか、ということです。あの戦争はなぜ、どのようにして起こったのか、わが国はどうしてそこに向かったのか、自国に取ってとともに他の国々にとってそれは何であったのか、過誤があったとすればその原因は何か、そして、わたしたち国民の責任はどのようなものか、などが問われなければならないのではないかということです。これらのことがしっかり考えられ、それが継承されてゆくことこそ大切なことだと思わされるのです。